No. 515 太陽の坐る場所/辻村深月 著 を読みました。
和解を描いていると思いました
卒業後十年目のクラス会にも欠席した、大ブレイク中の女優=キョウコを話題に、かつての級友が盛り上がるF県立藤見高校元三年二組。
「どうしたら、キョウコをクラス会に引っ張り出せるのか。」
第一章「出席番号二十二番」
半田聡美
第二章「出席番号一番」
里美紗江子
第三章「出席番号二十七番」
水上由希
第四章「出席番号二番」
島津健太
第五章「出席番号十七番」
高間響子
小説は、五人の視点で、それぞれのクラス会への感慨を描写しながら、今の自分を振り返えりつつ進みます。
高校を卒業してからの十年は、就職し、人によっては結婚し、子どもをもうけます。
社会学で言う原家族から結婚家族への移行期です。親から与えられていた家庭を離れ、自分自身の家族を作る時期に入る人もいるわけです。
また、そのような同級生を眺めながら、独身生活を謳歌する人も多い時期だと思います。
成功している人もいれば、成功しようとがんばっている人も、平凡に落ち着く人もいます。
本書は、著者の持ち味である、ミステリーとして進行します。僕も謎を軸に、読書を進めました。その謎とは、プロローグで語られる響子を巡るトラブルが何なのか、です。
ですが、この小説を読んでいる間は、僕自身の高校時代の失敗を思いだしては後悔を新たにし、今は連絡を取ることもはばかられる、かつては毎日一緒に過ごした級友を思い、次から次へと記憶があふれ出してきて困りました。
この小説はミステリーなのですが、その謎=響子を巡るトラブルは、僕にも思い当たる、失敗の類であったり、後悔なのでした。
そして、この小説は謎が解けるとともに、僕に幸福感をもたらしました。
僕は、この幸福感を「和解」だと理解します。和解とは高校時代に不和となった級友との和解。若さゆえの失敗を悔やむ自分との和解です。
キョウコのような人を友達である、と僕も言うことが出来るはずだと思い、そう思える自分も、かつての高校生であった自分と和解が出来るはずだと思えたのです。
つまり、カタルシスがありました。
を僕に連想させます。
異論もあると思いますが、僕はラストに和解する二人の関係を、真の友情だ、と思いました。長い間、
「女の友情って何?」
と考えるのが文学のテーマにもなっていると思いますが、この小説はその答えになっている、と僕は思います。
「女の友情って何?」
と考えるのが文学のテーマにもなっていると思いますが、この小説はその答えになっている、と僕は思います。
と、言うか、これを「友情だ。」と感じる人とは気が合うのだろうな、と思います。
彼女(小説の最後に友情を形成する彼女)の友情の形成(と言うのは、上記のように、僕の読書に偏っているかもしれないけれど(;^_^A)は、かつての自分の振る舞いを後悔をしながらも、それを今の自分を形成するものとして正面から受け止めた彼女への祝福だと感じました。
なお、この小説のメインテーマからは逸れますが、脇役、真崎修の(二十八歳現在の)言動が、僕にはよく理解できます。小市民と言うのは、こういう人のことです。せめて仕事にだけは真摯に取り組んで頂きたいと思います。
また、ここで、僕はこの小説の構成上重要な箇所=東京に出てきた級友と、地元に残った人たちの関係に全く触れていません。それは僕のやたらと個人的な感想になってしまうので、書けないのです。僕は、都心への通勤圏で生まれ育ちました。高校の同級生には、地元の商店街の子どもがいます。同級生同士で結婚し、地元で働いている人もいます。彼らとは、共通の話題は無いだろうな。と思うと少し寂しい思いもしますが、それは、それで仕方のないことなのでしょう。太陽はどこにあっても明るいのですし。
2009年5月10日
No.515
上記は、
「これは、直木賞候補になるのでは?」
と直感し(ならなかったけれど)直木賞を意識した感想文になっています(笑)
にも、本書を推薦しているし(笑)
ところで、この文章を書いた当ブログの元サイト
では「10作品を越えたら、背景画像を作る」と決めています。辻村深月作品については、本作品が10作めとなりました。
盆地の周辺(高地)では桃の花は、まだつぼみでした。斜面を下ってゆくと、勾配とともに、つぼみがほころび始め、市街地(盆地の中心地=比較的低地)では満開になっていました。
桃畑の中で撮った画像は、農作業(おそらく受粉)をしている農家の人を手伝いもせず、一応挨拶&写真撮影の許可をもらって撮ったものです。
辻村深月作品は「冬」のイメージが多いですが、春の桃の花画像も生命感があり、明るく、幸せな感じがして良いでしょ?
と言うわけで、僕はデビュー作から辻村作品に接しています。
デビュー作を拝読したときの感想は、
”出し惜しみなし感マックス”
でした。
「こんなにネタを使っちゃって良いの? 次は書けるの?」
とに心配になりました。しかしながら、辻村深月の小説家として引き出しは、無尽蔵でした。
「タイムマシンが入っているのではないか。」
と思うほどでした。
”出し惜しみなし感マックス”
でした。
「こんなにネタを使っちゃって良いの? 次は書けるの?」
とに心配になりました。しかしながら、辻村深月の小説家として引き出しは、無尽蔵でした。
「タイムマシンが入っているのではないか。」
と思うほどでした。
次から次へと作品を発表し、そのたびに、トリックのネタのみならず、人間の描写のバラエティーの広さや、深さに畏れ入ったものです。
最後は夜景です。
甲府市街の夜景を見渡す事ができる盆地北部の小高い公園です。
甲府の若者のデートスポットだそうです。作品に登場する若者も、恋人とふたりでこの夜景を見たのかしら。と想像しつつ、このページはここで筆を置きます。
2014年12月30日