No. 567 ツナグ/辻村深月 著 を読みました。
人を理解したいと思う気持ち
人と付き合うためには、相手を理解することが必要です。
しかし、人を理解するにはある程度の時間が必要です。
そこで、理解が充分に進まない段階でも付き合いが必要な相手については、不十分でも「理解した」と言う気分になることができるそうです。いわゆる「第一印象」です。
長く付き合いが続くと、いつのまにか第一印象とはだいぶ異なる理解に至っていることに気が付くことがあります。理解が進むに従って、相手の印象を無意識に修正していくのも人間の「理解」の特徴だそうです。
人への理解の深め方には、二通りあると思います。
一方は、持って生まれた能力のままに、付き合いに応じて自動的に理解を修正する方法。
もう一方は、相手に対する理解不足を意識して、自ら理解を修正していく方法。
あるいは、単純に二分類に分けられる事柄ではなく、相手次第、状況次第かもしれないですが。
さて、「ツナグ」は、死者に一度だけ会う機会を与えてくれる使者です。
ツナグに依頼をしたいと願う人は、理解が至らないまま永遠の別れをしてしまった人への自分の理解不足を認識し、理解したいと願う人です。
積極的に人への理解を深めたいと願う人は、この小説を嬉しく読めると思います。
うぬぼれになるので、多少躊躇するのですが、僕は、最近ようやく人への接し方を「丁寧でなければならない。」と改めたところでした。人への理解は、常に更新していかねばならない、と考え始めたところです。
このタイミングで「ツナグ」を読みました。
ツナグに依頼する人物達の、心の死者への理解の移り変わりが、おもしろく読めました。
現実の世界では、「なぜ」と疑問が残っても、死んでしまった人の事は測り知れません。そこで適当な物語を自分で作り、理解したつもりにして、お茶を濁します。でも、この物語では一度だけなら、死んだ本人に会って確かめることができます。
「さて、僕は誰に会おうか。」
と考えると、生きている人の顔が沢山浮かんできました。
そうです。生きている人にならば、直接聞くことができます。ただし、正直に話せる関係があれば、ですが。
人を大切にせねば。
雑な付き合いに得るところは少ない。
死者の物語なのに、生きている人に思いを巡らせる読後感でした。
で、ちゃんと全編を考えてみると
「理解したい」
と望んでツナグに依頼した人は、第四編の「待ち人の心得」の土谷だけでした。(^_^;)
本書は、次の五編からなっています
「アイドルの心得」
「長男の心得」
「親友の心得」
「待ち人の心得」
「使者の心得」
如何に僕が、自分の興味を中心に物語を読んだのか、を思い知りました。
「太陽の坐る場所」
の感想を
「和解を描いていると思った」
とamazonのレビューに書いて、あまり評判が良くないのですが(^_^;)
なるほど。僕は、かなり自分の理解に偏った読書をしているのだなぁ。
「僕の感想は、あまり参考にならないのだなぁ。」
と思う一方、同じように
「人には丁寧に接するように心がけたいものだ」
「雑に接するのは良くない」
と本書を読んで思う人とは、気が合いそうに思う者でした。
2014年12月26日
No. 567