受動態

Daniel Yangの読書日記

No. 408 戦争論2 / 小林よしのり 著 を読みました。

1998/07/10年に刊行された前作
から三年あまりを経て上梓された「戦争論」第二弾。
前作同様、主題は第二次世界大戦における日本の行動とその意義なのですが、出版の直前(2001/9/3)に引き起こされた同時多発テロから筆を起こしています(第1章 同時多発テロアイデンティティー・ウォーである)。この第1部「戦争と現在と歴史編」では、特に「戦争と平和」が対義語では無い事へのチェックが僕の目をひきました(第2章 戦争と平和と個人)。では、それぞれの対義語は何か? 興味がある人は、ご自分で考えるか、本書で勉強してください。
これを明らかにした後、現代日本人の戦争に対する感覚  当事者として考えたことがない戦争に対する感覚  を紹介し(第3章 誰を殺しますか?)、話題を一歩進めて、公共性の感覚まで広げて考えます(第4章 「公」と「私」の逆転)。そして、この公共性の観点から、第二次世界大戦当時の日本人の感覚を取材し(第5章 1068人の人身御供を戦勝国に差し出した日本)、本題に突入します。
 

第2部「歪められた戦後言論空間編」は、まず、二十世紀に世界規模で実験された社会主義国家とその幻想に取り付かれたままの現代人を指摘し(第6章 社会主義というカルトに占領された戦後)、なんだか、取り付かれた人の巣窟になっているようなマスコミを描きます(第7章 「世論」を作るテレビ・新聞の善良主義の正体)。そう言えば、つい先週も全国ネットを持つTV放送局が、中国外相の日本に対する内政干渉をしつこく報じていましたが(小泉純一郎首相の靖国神社参拝について「絶対に受け入れられない」と強く批判2004/3/6中国李肇星外相)べつに、中国に受け入れてもらわなくても良いのでは? と思います。逆を考えれば、中国では経済犯罪や、収賄罪などでも(時の権力者の意向次第で)簡単に死刑を執行するけれども、それは、日本として受け入れ難いですか? たとえ受け入れ難くても、それは中国の内政問題で、日本がとやかく言うことではありませんよね。ていうか、そんなこと、あまり日本人の関心の的ではありませんよね(僕は気になりますけれども)。日本の靖國神社についてだって、中国の市民が関心持っているとは思えないし……。外国の意向を気にするよりも、まず日本の首相にどうして欲しいのか、僕たちが意見をまとめるべきではないのでしょうか。経済発展を成し遂げた1980年代「エコノミックアニマル」と罵られて以来、僕たちは意見を持った人間として、日本人のパーソナリティーを海外に主張する必要性を意識しているのではないかしら。本書では「例えば日本人として、このような立場をとってはいかが?」と提案されています(第8章 本当はこう書きたかった新しい歴史教科書)。そこで、僕も「どのような立場に立てばよいのかな?」と考えてみました。が、しかし、そもそも「靖國神社って何?」と言う状態でしたf(^ー^; 本書では、次に親切に概略を教えてくれます(第9章 国会議員が知らない靖國合祀の真実、第10章 戦後日本人が忘れた靖國問題の真実)。ちなみに、靖國神社のホームページ

www.yasukuni.or.jp

でも概要を知ることが出来ます。でも、本書で読める、海外知識人の靖国神社に対する評価は、他のメディアでは得ることの出来なかった、今まで僕の知らなかった観点に著者の慧眼を感じます。

 
マスコミの扱いと言えば、サッカーの歴代日本代表チーム監督評価を観察していて気付くことがあります。良いのか、悪いのか。どちらかの論評が、常に多数を占め、ある程度世論みたいなのが出来ているように感じます。この世論てのが、代表チームの調子が良い時には「それでよい。良い監督だ。」みたいで、負け出すと「こりゃだめだ。悪い監督だ。」と一変するのが賑やかです。報道というものは、人となりと同じで、ある程度の自己統一性が必要だと言うことでしょうか。監督のリーダーシップの真実よりも、チームのコンディションの代表として報道する方が、見ている側に安心感を与えると言うことなのでしょう。本書第3部「情報戦争・冤罪対策編」では、このように、真実を伝えるよりも、一定の決まったイメージに沿って報道される事象について述べています(第11章 右翼のレッテル貼りを排する女性に感謝)。また、報道がガイドラインにするイメージほどには人の感性が画一的では無く、理解者、非理解者が入り乱れている状況が存在することを指摘します。
しかし、いくら安心できるイメージが大切だからと言っても、勝ち続けている時は「信頼できる優秀な監督だ。」と報道され、惜しくも敗れ、責任をとって任を退いた途端に「失敗の連続だった。日本チームには不向きな監督だった。」などと言う評価に接すると、その評価自体に違和感を憶えますよね。本書のテーマである、第二次世界大戦当時の日本軍にたいする報道も、二転三転しています(第12章 総括・従軍慰安婦)。いい加減、マスコミっつぅのも、自分の信用を心配したらいかがでしょうか。ていうか、なんだか、もう、新聞なんてイラナイ? って思いません? もしかしらたら、もうすぐ、役目を終えて無くなるメディアなのではないかしら。大衆新聞って。と思えてきます。ちなみに、僕の場合、自宅では久しく新聞を購読しておりません。職場で契約している業界紙と経済紙は、一通りチェックしておりますが……。
では、信頼できる報道とはどのようなものなのでしょうか。本書では南京事件を例にとって、報道の信用回復へ一つの指針を示します(第13章 南京大虐殺の謎)。また、マスコミの信用を傷つけるものとして、ニセ写真が記憶に新しいですが(例えば、重油で息も絶え絶えの水鳥が記憶に新しいですね。同じ写真が、タンカー座礁事件と、油田地域での紛争で、それぞれの悲惨さを訴えていました。必ずどちらかが嘘なのですが、真実は両方とも嘘でした。)報道写真の信用回復についても、本書で言及しています(第14章 情報戦争としてのニセ写真の見破り方)。
このように、報道は嘘を交えて特定のイメージを僕たちに刷り込んでいるわけです。当然不自然さがつきまとい、無理が感じられるわけですが、本書はここで核心に触れます(第15章 日本はなぜ戦争をしたのか?)。なぜ日本は第二次世界大戦に参戦したのでしょうか。あ、違った。第二次世界大戦では無く、太平洋戦争。あ、これも違いましたf(^ー^; 太平洋戦争よりも、第二次世界大戦よりも以前に、日本は日中戦争からずっと戦争をしていましたね。中学校の歴史で習いました、蘆溝橋事件。「一発の銃声が」。しかし、それじゃ、解りませんて。そんな説明じゃ「おにぎり一個」をサルカニ合戦の原因として語るようなものじゃありませんか。「そのほうが、分かり易くて良い。」と言う方もいらっしゃるでしょう。銃声一発で日中戦争。おにぎり一個でサルカニ合戦。でも、僕は納得出来ないぞ! と言うわけで、当時の国際関係から丹念に解説してくれるこの本は、ここから佳境に入ります。つづいて対米、対英その他の戦争についても、日本、米国、それぞれの思惑から描きます(第16章 パールハーバー)。と勢い余って書きましたが、実は僕が丹念な戦争原因考察に接したのは、本書が初めてではありません。どこかの大学の先生(スミマセンm(v_v)m先生のお名前を忘れました)の講演を、随分前に聴いた覚えがあります。「もし、日本が勝っていたら」から始まる当時の僕にとっては衝撃的な命題から出発した講演。
一般にファシズム対民主国家の戦いと解される場合が多いようだけれども、もし日本が勝利したとしても、いつまでも軍部が身勝手を行う事は不可能であっただろう。いずれ議会が軍部をコントロールし、政治や経済の混乱を収拾したはずだ。すると、もし日本が勝利しても、勝ったのはファシズムではない事になる。
と言うような内容だったと思うのですが……、この論旨は、とても興味深いです。例えば、スペインや、南米諸国は、第二次世界大戦中軍政やファシズムの国でした。でも、彼らの国は、特に戦争で負けるわけでもなく、中立国として国体を維持し、戦後へ到ります。
や、脱線し始めましたので、本書に戻ります。
このテーマは、本書で一番長く扱っているのですが、大きいテーマですので、次作へ引き継がれます。第二弾である本書は教育現場での過去の扱いに触れ(第17章 過去を裁く現代人の驕り)、次作への伏線をはり(最終章 カミの国は死者の国でもある)、一旦筆が置かれることになります。
2004年 3月14日
No. 408