受動態

Daniel Yangの読書日記

No. 407 バカの壁 / 養老孟司 著 を読みました。

「話せばわかる」いえ、そんなことありませんね。いくら話しても、自分が伝えたい事とは違った理解をされている事に気づいた経験は、それほど希ではありません。
僕が住んでいるアパートは、ご近所づきあいが活発で、時々夕飯をともにします。一階の息子がまもなく小学校に上がる早春の頃。隣の一家での夕食のひととき。
楊「僕の出勤時間は、近所の小学生の登校時間と重なるから、信号を守って、正しく歩道を歩くように心がけてるよ。」
一階の母親「そうよ、楊さん、信号無視して、それをまねた子供がいたら、あんたのせいだからね。」
なにか、会話がかみ合ってませんね(笑)
僕は、昨年の縁日のころ。この家族とともに近くの公園に歩いて行きました。その道中、かの母親が子供の手を牽いて、信号を無視し、横断歩道が無いところを選んで道路を横断するのが気になっていました。そこで「子供には手本を示さねば。」と提案したつもりでしたが、話が通じなかったようです。
昨年大ヒットした本書(僕が読んだのは、2004/1/15の第43刷!)は、人のコミュニケーションの限界を、脳へのインプット/アウトプットと言う視点から考察した一冊です。
第一章 バカの壁」とは何か
まずは「わかる」ということについて、知識と理解の違いについて、医学生への授業風景から筆を起こしています。マスコミの報道、科学の言う真実など、「正確な事実」「真理」とは何かについて疑問を投げかけています。
第二章 脳の中の係数
同じ話を聞いても、同じものを見ても、人それぞれの理解することは違います。その違いを「脳へのインプット(係数)として解説してくれます。
第三章 「個性を伸ばせ」という欺瞞
では、人と違うのは何でしょうか? 個性でしょうか? 安易に陥りがちな欺瞞を指摘されます。そう言えば、僕が「すばらしい個性だ」と思っていたのは、みんな、その人の才能だったなぁ。と思い至りました。
第四章 万物流転、情報不変
では、何が確実で、何が不確実なのか。この章では、変化するもの、しないものに例を変えて考えています。
第五章 無意識・身体・共同体
ここでは、インプットではなく、アウトプット(出力=行動、言動)について言及しています。僕たちの弱点? お金を払うと顔や身体をいじくってくれる業者(という僕の表現は、なんだか的を射ていないような気もしますが)や、スポーツや体操を教えてくれる人には、学校で勉強を教えてくれる先生とは、別の畏敬の念を感じている人も多いはず。それは、つまり、僕たちの弱点だと指摘された気分です。この弱点と近年の都市化の関連を指摘し、都市で生きる現代人の矛盾を明らかにしています。「働かなくても食える社会」かつての理想が現実になった現代への問題提起です。
あんまり関係ないですが、手元に杜甫(中国712-770)の詩集「杜甫詩選」黒川洋一編、岩波文庫赤4-9、1991/2/18)
があります。詩の中で杜甫はやたらと世の中を憂い、家族を心配しています。しかし、食べ物に困ることはなかったようです。「杜甫は当時から貨幣流通経済の中にいて、金さえあれば、とりあえず喰うことが出来た都市生活者だったのだなぁ。」と感慨深いです。
第六章 バカの脳
普段耳にする「個性」というのが、実は「才能」であることを第三章で学びました。では、特殊な才能を発揮する脳とは? ついに本題に入ります。特殊な脳とは、つまり情報の処理方法。入力された情報に意味づけをし、判断し、行動に移す。優秀なスポーツ選手や、犯罪者など、特殊な例を挙げて解説しています。
またもや本書とは関係ないのですが、僕自身について思い当たったのは、僕が音楽を聴くときに視覚を利用していることでした。バンドなどの演奏を注意深く聴いているとき、僕の視野が異様に狭く感じられたのは、このためだったのですね。真正面で歌っている人の顔しか意識に入りません。幼い頃からピアノを習わされていたのと、高校でコピーバンドをしたときの耳コピーの癖が影響しているのだと思いますが、いつのまにか、一人一人の演奏や歌を、視覚の中で分離し、勝手に頭の中で再配置しています。再配置した上で、一つ一つの音を、視覚上の一直線の棒の上に音階順に置いています。だから、それぞれの演奏が、僕にはバラバラに聴こえます。こういう事を合奏している人に話すと、いやがられますが……。ちなみに、ステージの写真を撮る機会がたまにあるのですが、そんな時は、ステージ全体を視野に入れながら、フレームに入る絵を考えるので、いつも聴いている「丁寧さ」が無くなり、全く別の音楽として聞こえます。おぉ、いろんな発見がある本だなぁ。
第七章 教育の怪しさ
ここからは応用編。では、脳への入出力はいかにあるべきか。教育の現場経験が長い著者の考察です。
やっぱり、本書とはあまり関係ないのですが、おしゃべりをしていて楽しい人と、つまらない人の違い。または、読んで面白いエッセイと、つまらないエッセイの違い。たとえ僕の良識と違っていてもしゃべる本人が試行錯誤(フィールドワーク)の上で、思い当たった事というのは、説得力があって、面白いですね。逆にいくら本を沢山読んで、テレビを沢山見て、知識が豊富な人でも、「本にはこう書いてあった。」「有名人がこう言っていた」という人はつまらないですね。
第八章 一元論を超えて
最後は、対立する社会の、その理解について。我々日本人の特性について言及しているところが貴重に思われました。
僕は、この本のように大ヒットした作品は、好んで読まないようにしています。それは、僕が感想を述べる余地が無いと思っていたからです。それにもかかわらず、本書を手にしたのは、二つのTV番組に著者が出演しているのを見たからです。
一つは、どこのTV局で作成したのか、いつ見たのかも忘れたけれども、本書を勘違いの上で(つまり、バカの壁を取り払うことなく)ネタとした番組でした。そこでは、「バカの壁を持たない人」を取材していました。入ってくる情報の重み付けに傷害がある人を「すばらしい才能だ」と礼賛していました。たしかに、すごい記憶力を持ち、あらゆる偏見を持たない彼らは驚嘆にあたるのですが……、彼らに対するコメントとして著者がぼそっと「でも、彼らと実際に話をしてみれば、意味が通じなく、友人としておつきあいするのは難しいはずですよ。」と言う意味のチェックを(僕の記憶では)入れていたのが印象的でした。不正確な事はきちんとただすけれども、それが嫌みにならないのは、著者の人柄というものなのでしょうか。
もう一つは、昨年の大晦日(と言うか、日付が変わって今年の元旦)NHKでの対談「年越しトーク・壁を越えて」でした。
本書は冒頭で「話せばわかるなんてウソ」と言っていますが、「話せばわかる」と言えば、五・一五事件で殺害された犬養首相。なんと、その首相のお孫様道子氏との対談です。「話せばわかる」については、それぞれ解釈を述べられていたので、ここでは触れませんが、紛争地域の援助ODAで活躍する犬飼氏が述べる、人を殺す事の禁忌性について、養老氏のコメントに説得力を感じました。そして、「おぉ、この先生の本を読まねば。」と思ったわけです。 人の死をどう感じるか。これは、本書でのテーマである「脳へどのように入力されるか」その重み付けに大きく関連するところです。
本書を読んだあとに、面識の浅い同年齢の友人(つまり、ネット友達ですな)とお会いする機会がありました。よくある事ですが、僕たちが高校生だったときの話題で盛り上がりました。そのときにアイドルの自殺が話題に上り、彼は若者の自殺の増加に寄与した。とコメントした一方、僕は「人の死を哀しく感じた最初の記憶で、『あぁ、簡単に死んではいけないのだなぁ。』と感じた。」とコメントできたのも、この本のおかげと言うところでしょうか。
長くなりましたね(^_^;)
最近、更新が遅いので、次回からは、一冊について、こんなに長く書かないようにしようと思います。
2004年 3月 5日
No. 407