受動態

Daniel Yangの読書日記

No.541 ああ、禁煙vs.喫煙/姫野カオルコを読みました。

ああ、禁煙vs.喫煙 (講談社文庫)

ああ、禁煙vs.喫煙 (講談社文庫)

 
新聞に発表したコラムを集めた文庫オリジナルです。
五つの章立てで読みやすくなっています。
第一章「喫煙(吸う人)vs.禁煙(吸わない人)」
第二章「耳……聞く・聞こえる」
第三章「見る&見かけ」
第四章「ヒメノ式歳時記+マギーさん」
終章「聖ヴェロニカの花に祈る」

 

第三章までは、著者のライフワークである、世間の誤解への取り組みです。冷静な視点から問題点を整理し、無駄な対立を解消すべく、あれこれ考え、提案されています。
特に印象に残ったのは、第三章のV「頑固な便秘、頑固な「思い込み」」です。
僕は、かつて頻繁に僕が愛読しているブログを、職場の同僚や、友人に勧めていたことがあったのですが、かなりの割合で僕が勧めたブログを批判する人がいました。自分が好きで読んでいるものにけちを付けられたような気がして不愉快でしたので、最近は、愛読ブログを人に勧めないことにしました。「的はずれな批判はなんでかな?」とずっと思っていたのですが、このV「頑固な便秘、頑固な「思い込み」」を読み、「なるほど。」と腑に落ちました。

 

第四章からは、対立や誤解の考察を離れて、エッセーになっています。夏の暑さのしのぎ方を綴った「扇風機」や「年賀状」「クリスマスの過ごし方」など。
そして、終章を読んで、僕は感動しました。
「春はたくさんの花が咲く。」と、春の賞賛から始まり、「おぉ、小林秀雄世阿弥の美意識を論じた「当麻」ばりだな。」と思ったのですが、
読み進むと、春を愛でる人間の側の状況に言及しており「おぉ、小林秀雄を批判した坂口安吾の「教祖の文学」ばりだな。」と思い直しました。
しかし、最後まで読むと、そんな文学的な工夫に留まっているのではなく、読者へ向けた、生きる事の愛しみの表現になっている事に気付きました。
夕飯を食べながら読み終えたのですが、読み終えた瞬間に食事を中断し、しばらく感慨に耽ってしまいました。
文学は、一応芸術の分野に分類されると思うのですが本を読んで「芸術だなぁ。」と思ったのは、これが、まだ二作目です。(一作目は、別の作家の小説でした。)
まさか、エッセーを読んで感激し、芸術を感じることなど期待していなかったので、不意打ちを喰らったように、食事を中断し、しばし感慨に耽ってしまった次第です。外で食事をしていたので堪えましたが、自宅で一人でいるときだったら、感涙を抑えられなかったかも知れません。大げさなようですが。
この段の初出は日経新聞の2011年3月30日と記されています。つまり、震災で被災された方へのお見舞い&励ましとして書かれたものと推測されます。
でも、僕が、今(2013年4月25日)読んでも、
「このまま、ただ歳を取って、老いていくだけの人生で良いのかな?」
と漠然とした不安を感じていたこと、それを日々の雑事で紛らわせていた自分に気付く一方、
「うん。これでも良いのだ。季節を感じながら生きていこう」
と励まされ、生きる勇気を与えられたように感じます。

 

なんとなく「疲れたなぁ。」と感じている人や、
「空しいな。」と不安に思っている方には、
是非お勧めしたい一冊です。
以上は、amazonに投稿した書評をそのままコピペしたものです。スミマセンm(v_v)m
2013年 4月25日
No. 541

 

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こんばんは、mixi日記に書いた内容をコピペで追記します。
タイトル「文章による芸術」

  

この一冊は、おおよそタイトルの通り、第一章「喫煙(吸う人)vs.禁煙(吸わない人)」のように世間にある一般市民の対立を考察しています。
喫煙可能な飲食店をカウントするなど、一部にフィールドワークを用いながら、客観的に検証し、
「これは、実は勘違いで、実際は、こうだよね?」
「このようにすれば良いのでは?」
など提案をして、人々が日々穏やかに過ごせる方策を模索しています。
著者のデビュー以来の持ち味を発揮したものです。

 

しかしながら、この一冊は、もともと新聞に発表したコラムやエッセイを寄せ集めたものです。
ですので、2011年の震災の際には、被災者へのお見舞いのようなものも発表し、それが、ここに収録されています。
終章「聖ヴェロニカの花に祈る」
たった四ページにも満たない、この一遍が、しかし異彩を放って、僕の感覚に突き刺さりました。
日本経済新聞社の夕刊のコーナー「プロムナード」2011年3月30日に発表されたエッセイです。

 

「春はたくさんの花が咲く。」
から始まるこのエッセイは、冒頭で、春には咲く花を愛でています。

 

冒頭を読んで、すぐに頭に浮かんだのは、坂口安吾の「教祖の文学」です。
「教祖の文学」は、
角川文庫「堕落論1957/5/30←僕が読んだのは、ずいぶんと古い版のようだf(^ー^;
堕落論 (角川文庫)

堕落論 (角川文庫)

 
および、
新潮文庫堕落論2000/6/1
堕落論 (新潮文庫)

堕落論 (新潮文庫)

 
に収録されています。
小林秀雄(1902 ~ 1983)が世阿弥(1363~1443)の美意識を論じた「当麻(たえま)」というエッセイについて批評したものです。
小林秀雄は、このエッセイで、美を鑑賞する側の人間の態度について言及していますが、
坂口安吾は、「教祖の文学」の中で、途中に宮沢賢治の「眼にて言ふ」といふ遺稿を引用しながら、
「見る側の態度を正さなくても、真剣に生きていれば、人は美しい花を見るのだ。」
と、熱く語っています。(と、僕は読みました。)

 

と、云うわけで、
「春はたくさんの花が咲く。」
から始まる姫野カオルコのこの本の終章を読み始めて、坂口安吾の「教祖の文学」が頭に浮かんだのですが、
読み終えたら、全然違いました。

 

坂口安吾の「教祖の文学」も結局のところは文学論(ていうか芸術論)です。
でも、姫野カオルコの「聖ヴェロニカの花に祈る」は、文学(ていうか芸術)そのものでした。

 

文学は一応芸術の分野になると思いますが、沢山文芸作品を読んできて、僕が「おぉ、芸術だなぁ。」と感じたのは、これが二作目でした。
ちなみに一作目は、小池真理子直木賞受賞後に最初に発表した小説「欲望」新潮文庫1999/2/1)です。
欲望 (新潮文庫)

欲望 (新潮文庫)

 

 

なにをもって「芸術」とするかは、難しい(というか、人それぞれだ)と思うのですが、

 

姫野カオルコの「聖ヴェロニカの花に祈る」は、春を愛でた文章をもって、絶望のうちにある人に生きる歓びを思い出させていると思います。

 

このエッセイ自体は、被災した人へ向けられたものですが、二年経て、今僕が読んで気付いたのは、
「なんとなく、このまま歳を取って、病気か、怪我か、寿命がくるのを待っているだけなのか。」
と漠然とした虚しさの中にいる自分が励まされている事です。

 

僕は、読書感想文を多く書いていて
「読書の最高の歓びは、
「僕のために書かれた文章だ!」
と感じたときにあるのではないか。」
と思っているのですが、この被災者のためにかかれた文章を読んで、僕は
「あぁ、僕のために書かれた文章だ。」
と嬉しく思ったわけです。

 

たった、524円×消費税で買える文庫の、たった四ページのエッセイは、大変なコストパフォーマンスを持っています。
読書感想文を多く書いていて直接「買え」と、芸がないことをするのは恥ずかしいのですが、
この本に限っては、
「立ち読みで済ませたりせず、買って読めば?」
と皆様に勧めるものであります。

2013年 4月25日

 

オオイヌノフグルです。

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昨日(2014/ 3/23)菜の花畑を見に行った、四万十市(旧土佐中村)入田で見つけました。

2014年 3月24日