受動態

Daniel Yangの読書日記

No. 661 プリンシプルのない日本 / 白洲次郎 著 を読みました。

「嵐の男」、そして「占領を背負った男」  戦後史の重要な場面の数々に立ち会いながら、まとまった著作は遺さなかった白洲次郎が、生前、散発的に発表した文章がこの一冊に。「他力本願の乞食根性を捨てよ」「イエス・マンを反省せよ」「八方美人が多すぎる」など、日本人の本質をズバリと突く痛快な叱責は、われわれ現代人の耳をも心地よく打つ。その人物像をストレートに伝える、唯一の直言集。
  カバーの背表紙を転記  
白洲次郎について知りたいと思い「本人が書いた文章」ということで、本書を選びました。
サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行し、吉田茂首相の日本語での演説文を起草した人。
と言う程度の理解しかありませんでした。
この一件も、公式には「もともと外務省が用意していた文章」ということになっているそうです。謎が残ります。
白洲次郎についての解説も、二次的な評価が多く、ハッキリしません。
と、言うわけで、本人が書いた文章が良いと思い、本作品を選びました。
アタリでした。
本書は、2001年5月にメディア総合研究所から刊行された同名の単行本
の文庫化(2006年)です。
単行本の解説に相当する辻井喬による「プリンシプルのあった人」が文庫にも収録されています。
その冒頭で、本書が、1997年11月青柳恵介、序文白洲正子 で刊行された『風の男 白洲次郎』 新潮社
が評判であったため「本人が書いた文章が読みたい。」と希望する読者に応えるために企図されたものである、と解説されています。
なるほど、本人がどのように吉田茂に接したのか、わかったような気がします。また、本人の人となり(プリンシプルのあった人となり)も感じられました。
本人の言動として(wikipediaなどでも)部分的に本書から引用されていますが、おそらく、部分的な抜粋では、何が言いたいのか、よくわからないと思います。
本書を一冊読めば、本人の意図するところがわかります。

読んで良かった、と思いました。

強く人に勧めたい一冊ですが、この一冊を読んで、教わったことは「自分のプリンシプルを持て」と言うことです。人に勧めるのではなく、自分のプリンシプルを構築し、納得のいく生き方をしたい、と思いました。

本書構成は下記の通りです。
序文
野人・白洲次郎  今 日出海
本文(主に「文藝春秋」に掲載された1951年から54年までの投稿)
カントリー・ジェントルマンの戦後史  白洲次郎直言集
付録的な
日本人という存在  座談会(白洲次郎河上徹太郎・今 日出海)
単行本の解説的な
プリンシプルのあった人  辻井 喬
文庫の解説(本書の概要が簡潔に記されています。立ち読みをするなら、この文庫の解説を先ず読むと良いです。)
青柳恵介
読み終えた後に、咀嚼しました。
現代に、あてはめて思うところが沢山ありました。
二つだけ述べます。
一つめは本書での指摘「政治家の仕事は、結果に責任を持つこと」について、
近年の首相や県知事などの首長の言動があてはまらないのではないか、と思われる点について。
例えば、白洲次郎を呼んで同行させた吉田茂などと違い、
現代の首相や、知事は、自分で判断、決断し、実行を指示するのがトップの役割だと思っているのではなかろうか、と感じることがしばしばあります。
「自分で指示を出す」タイプです。責任感があるような、仕事をしていると演出されているようですが、実際の所は、無謬性の原則に甘え「頑張ったけど結果が出なかった」「当時の判断としては適切だった。」などと、結果に責任をもっていないと思います。
無知の知ではありませんが、経済とか、医療のこととか、軍事とか、国際関係とか、それぞれ優秀な専門家や実務家が官僚にも民間にも(現代においても)いらっしゃることでしょう。
首相や県知事が、自分で判断して決断して、命令を下すことは不要です。任せて指揮を執らせれば良い、と思いました。
的確と思われる専門家に任せて、結果の責任は自分が持つのが政治家、と本書を読むと理解出来ます。
市民の側からの視点では、
最近SNSで(今さら)池田勇人の失言を取り上げている人の発言をちらほら見かけました。
(経済の優先順位を説明する際に、優先順位の低い職域の人に自殺者がいてもしかたがないとか、米が足りないのにみんなが米を求めるのは無理がある。麦も食えとか、)
我々市民の立場からは、本来このような言動を批判するのではなく、結果がどうだったのかを吟味するべきだ、と思いました。
市民は(たとえ米が食べられなくとも)飢えるよりは麦が食べられる状態が好ましいはず。
人の揚げ足を取るのは容易です。でも、結果に責任を持つのが政治の役割と理解し、無責任な批判者にだけはなるまい、と思いました。
二つめは、マスコミにプリンシプルが無いこと。
現場の人達は、たぶん正義感があって取材して記事を書いているのだろうけれど、記事に問題があった場合には、取材先の責任にすることが多いような気がします。
例えば、COVID-19の報道は、自分が報道したい内容(例えば「若者が自粛しなくてはいけない。」とか)に合致したことを言った人を伝えているようです。伝えている内容は、取材した人の(またはテレビ局の)意向に沿っているのに、事実関係や結果責任は、取材した先に押しつけている形です。
その責任回避が報道のプリンシプルならば、本来報道は、自分の意向に沿わなくても、両論の(反対の)意見を報道すべき。例えば今回の緊急事態宣言については「不必要。」と述べる人の意見はネットでは沢山拝読できるけれど、テレビではほとんど見ることが出来ません。
つまりテレビは、報道としてのプリンシパルは持っていないし、責任ある伝達者としてのプリンシパルも持っていないのだ、と気がつきました。
テレビを信用している人が多いことに気がつく、今回のコロナ騒動ですが、マスコミの恐怖を煽る態度には、出口戦略がないように思います。いずれ「もうマスクは不要です。」と言う時期がくるはず。その時にテレビがどのような事を言うか注目していたいと思います。
2021年 7月17日
No. 661