受動態

Daniel Yangの読書日記

No. 294 蕎麦屋の恋/姫野カオルコ 著 を読みました。

蕎麦屋の恋 (Chu chu colors)

蕎麦屋の恋 (Chu chu colors)

 
表題の中編「蕎麦屋の恋」他、五つの短編を含む一冊です。
主人公の顔を撫でる風。その風の季節による変化、時間による変化が心地よい一冊です。

 

郊外の住宅地に住み、毎日同じ電車に乗って通勤していると、朝のラッシュ・アワー、昼食をとりに出掛けるオフィス街の交差点。自宅へ向かう改札。いつも同じような空気を感じています。でも、そこには季節による変化があります。
そして、いつもより早い時間に出勤した朝や、普段残業をしない人が残業をした帰路、毎日残業している人が珍しく定時で帰宅する帰路を包んでいる空気は、新鮮です。
そんな変化が、顔を撫でる風の変化として感じられた一冊でした。

 

表題作の「蕎麦屋の恋」は恋愛小説のようであり、恋愛小説ではないようでもあり、今までに僕が読んだ恋愛小説とは異なった新鮮さもありました。
今までに僕が読んだ恋愛小説では……。
例えば、戦前の恋愛を描写した小説では、家や、身分を捨てて駆け落ちした二人が、落ちてゆく街道の宿で雨のしたたる中、思いを遂げます。
例えば、戦中の恋愛を描写した小説では、出征を前にした青年との一夜へ娘を送り出す主人公が「今夜が彼女の一生になるな。」などとつぶやいたりします。
例えば、現代。発達した資本主義経済下での恋愛を描写した小説では、左ハンドルの自家用車を地下の駐車場に駐車した主人公が、ヒロインをエレベータに乗せ展望の良い高層階のバーへ連れて行きます。それは、予約した部屋へ直行する無粋を避けるためです。
みんな、目的は一緒(笑)
でも、「蕎麦屋の恋」では、ちょっと違います。
恋をしたら、手を握りたくなるものだ。恋をしたら、束縛したくなるものだ。恋をしたら、自分のモノにしたくなるものだ。恋をしたら、思いを遂げたくなるものだ。世の中に流布されている「恋愛の常識」に違和感を抱き、「わたしは、ちょっと違うんだけれどなぁ。」と思う人にはフィットするはずだと思えます。こういう恋愛の形も存在して良いのだ。と安心できる物語でした。

2001年6月6日
No. 294

蕎麦屋の恋 (角川文庫)

蕎麦屋の恋 (角川文庫)

 
文庫になったので買って読みました。
上に記したのは、ほとんど表題作の中編「蕎麦屋の恋」を読んで、僕が感じた雰囲気を記しただけですので、まずはおそらく今後プレミアが付くかも知れない単行本にのみ収録されている四編についても、それぞれ感想を記してみようと思います。
蕎麦屋の恋  ソロバンが得意な山藤製薬経理課長秋原健一と、OLを辞め念願の女コックを目指して修行中、波多野妙子との物語  
表題作のこの作品は、単行本、文庫ともに一冊のおよそ半分のページを占める中編。秋原課長の「一 男の章」、波多野の「二 女の章」、二人の「三 男と女の章」で構成されています。
文庫で読み直して感じたのは、記憶の中では、凡庸としていた秋原課長が「こんなにモテたんだっけ?」とう意外さでした。もっとも、具体的な異性との接触に飢えている男だったら、波多野の非直接的な欲望=恋人に求めるよりも、肉親に求めるべき愛情の渇望に応えることは出来ないのだろうな。と言う考察もありますが。
お午後のお紅茶  美容師の小林くんが間違って入ってしまったレストラン「ポプリ」とは?  
客商売をやっているとは思われないほど、客を悪し様に扱う「ポプリ」の店主描写も印象的ですが、僕は主人公「小林くん」の生い立ちからの描かれ方に好感が持てました。
イーハトーブの小迪[文庫未収録]  田舎の広い田園地帯に赴任した加賀美先生の日常  
風景描写が印象的なこの一冊の中でも、表題作に負けず劣らず、情景が鮮やかに描かれた短編です。
天国に一番近いグリーン[文庫未収録]  商店街で理想思想の普及活動に努める五人  
彼らの気持ちは解るのですが……、いろいろな方法論があると思いますが、近所の人混みで普及活動に努める彼らの努力が報われる日は来るのでしょうか。
文庫未収録ですが、祥伝社文庫のアンソロジー「ワルツ」結城信孝編2004/7/30祥伝社に「ゴルフ死ね死ね団」として収録されています。
スワンの涙[文庫未収録]  高校同級生のメグに紹介されたニコラを捨てた男の感慨  
全盛期には、その評価の高さ故に独占されて普及せず。下火、主流が他に移ってから公開されたニコラと、ニコラを愛するものの不運。
色つきの男でいてくれよ[文庫未収録]  文藝評論家=相模公輔の日常  
「小人閑居して不善を為す」は、孔子の四書から「大学」の一文ですが、小人とは今言うところの小市民。小市民としての相模公輔の日常は卑小なのですが、彼の目を通して眺める現代の高校生、学生運動していた学生達に向ける視点が、妙に的を射ているように感じられました。
本の感想を書く時に「ストーリーは兎も角」と書いてしまって良いのかどうかは、僕も悩むところなのですが、と言うのは、「蕎麦屋の恋」でのいわゆる恋愛、「お午後のお紅茶」での女店主、「天国に一番近いグリーン」のゴルフ、「スワンの涙」のFEP、「色つきの男でいてくれよ」の評論、いずれも僕は作中登場人物の感慨とは別の方向から意見を述べることが出来るように思うからなのですが、やはり一冊を通しての風景描写が鮮やかな単行本版「蕎麦屋の恋」でした。
一方、文庫で新たに収録された一遍ですが……、
魚のスープ  結婚三年目の妻=桜子を連れてスウェーデンに旅行した圭一  
文庫に収録されなかった他の作品が、その作中で善悪、または主義主張をはっきりさせているのに対し、圭一の卑小さについて、それを肯定も、否定もせず、卑小さの中で生きていく小市民の描写に留めているように感じられました。
もちろん公序良俗は大切だし、良識を身につけていたいものだと僕も思うのですが、必ずしも、聖人ではいられない小市民としては、その卑小さを責められたところで謝るしかないのが現実。では、その卑小さを描く事の意味は? 読むことの意味は? 読者それぞれであり、僕は、圭一の邪推に、「そんな事もあるよなぁ」と単純に共感したのでした。

2004年11月28日