No. 441 桃 もうひとつのツ、イ、ラ、ク / 姫野カオルコ 著 を読みました。
の舞台設定を踏襲しています。
- 卒業写真
- 高校生まで過ごした故郷を離れ、妻の故郷でフィットネスジムのインストラクターをしている安藤健二の物語。中学時代の友情と淡い恋愛に馳せる思いを、大人になった今の視点で綴っています。
秘密の宝物のように、時々眺めては甘酸っぱい気分に浸る事の出来るのが少年時代の思い出ですが
作中で中学時代の安藤が読むヘッセ(Hermann Hesse(独)1877~1962)の「車輪の下」(高橋健二訳、新潮文庫1951/11/30など) -
- や「少年の日の思い出」
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- は、少年時代の思い出であり、このような思い出を持つ成人は描かれていません。一方この「卒業写真」では、例えば、ごく普通の「お父さん」と呼ばれる大人が描かれています。
きわめて普通の大人を形成するのにも、貴重な経験が必要。と、教訓として読んでしまうと、それは読み過ぎ。と言われるかも知れませんが。 - 高瀬舟、それから
- 「卒業写真」で安藤の友人として登場した野球部の副部長桐野龍。彼のガールフレンド森本隼子が実際に付き合っていた教師河村礼次郎との逢瀬。状況だけを書くと「ひでぇことをしている二人」と、「哀れな桐野」の対照性が強調されるのですが、ここでは河村の後ろめたさと、隼子の影のある家庭環境を背景に、二人の真剣さが桐野との疎遠を脇役にさせています。
- 汝、病めるときも すこやかなるときも
- 隼子たちとは小学校からの同級生、星澤頼子の独白。独白は、同じく小学校からの同級生で、後に彼女の夫となった唐仁原剛についてです。
自分の恋人や配偶者を語るときに、それを愚痴として不満を述べることも出来るのですが、この作品で頼子は愛情の対象として唐仁原を語ります。
訪ねてきた客に表向きののろけを語る、物語前半よりも、客の帰宅後に回想している中学生時代のなれそめの方が、より個人的で主体的になっていて、艶めかしくて好きです。 - 青痣(しみ)
- コミック化されています。
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- やはり隼子と中学の同級生、帽子屋の娘、田中景子の回想。
特に利害関係の無かった同級生の隼子を密かに呪っていた中学時代の自分を回想して。
過去の自分を忘れるのでは無く、たとえそれが、思い出したくない醜い自分であったとしても、記憶に留めながら普通の大人に成長した景子の誠実さが心地よい一遍です。蛇足で「箸の使い方」について。多くの人は様々な持ち方をしながらも「自分の使い方は正しい。」と信じているように思えます。僕は、一本を親指の第一関節と第二関節の間と、薬指で固定し、もう一本を親指、人差し指、中指の三本で操作します。僕は「この箸の使い方こそ、正しいのだ。」と自信を持っていたのですが、かつて「君の箸の使い方ってヘンだね。」と言われたことがあります。そう言う彼の箸の使い方が僕には妙に思えたのですが……。
また、魚の食べ方について、僕はこの著者のデビュー作「ひと呼んでミツコ」(集英社文庫2001/08/25)
この短編を読んで気になったので、あらためてアジの開きを食べながら、自分がどのようにアジを皮と骨と身に分けているか注意深く観察してみました。結果として、満腹し、皮を皿の端にまとめ、骨をきれいに整形して、皿の上にはガイコツ状態のアジを復元できたのですが、ずいぶんと左手(素手)を使っていることに気が付きました(笑) - 世帯主がたばこを減らそうと考えた夜
- 『ツ、イ、ラ、ク』で、森本隼子を襲った夏目先生の物語。
『ツ、イ、ラ、ク』では、救われない人物として、この夏目と、小西が登場するのですが、その一方に視点を据えた一遍。『ツ、イ、ラ、ク』を読んでいた僕は、「夏目の物語なんか読みたくないや。」と雑誌掲載時には購入しつつも未読だった一遍。
本書「桃」購入により、初めて読みました。隼子を襲う衝動に説得力がありました。彼の衝動に、同情しないものの、理解が出来た気分です。また、彼の哀しい性欲は、それでも二人の子をなした、結婚が当然だった時代背景を物語っています。 - 桃
- 最後は、表題作で森本隼子の回想。河村と再会する二年前の森本隼子。冒頭での上司とのやり取りから、隼子が活気のある職場で活発に働いている様子が伺えますが、中学時代の記憶を呼び覚ます桃を食べると……。
今月十四日からロードショーが始まるコンピレーションムービー「female」
2005年5月5日
No. 441
文庫が出版されたので買いました。
著者による「文庫版あとがき」、小早川正人による解説「『ツ、イ、ラ、ク』と『桃』を読んで」、付録として、ジキル古賀さん(ジキル古賀さんのホームページ「ヒメノ式で行こう!」にリンクしています)
解説を担当している小早川正人は、同じ著者の「ああ正妻」(集英社2007/03/30)
の主人公です(笑)。(推測ですが)モデルになった人物が小説での役名で書いているものです。ただし、「ああ正妻」には触れていなくて、まじめに「ツ、イ、ラ、ク」と「桃」を、ユーモアを交えながら分析、解説しています。なぜ、『ツ、イ、ラ、ク』と『桃』が僕たちにとって特別な小説なのか。これを書いた姫野カオルコの他に類を見ない才能、特性とは何なのか、なぜこの二作品が日本現代文学史上の金字塔なのか。僕には小早川くんの解説が絶妙に的を射ているように感じられましたが、皆さんはいかがでしょうか。
イアン・マッケンジー「6ペンスで舐めて」は、「ツ、イ、ラ、ク」の作中で登場人物が好きだった曲ですね。「ツ、イ、ラ、ク」が直木賞候補に挙げられファンが狂喜乱舞していた頃(当時某ちゃんねるで「「ツ、イ、ラ、ク」がヒットして、とりまき達は狂喜乱舞しているぞ。」と揶揄されてました(笑)、ジキルさんが(冗談で)小説の中の歌詞にメロディーをつけて、midiファイルを自身のサイトで公開したのが記憶によみがえります。当時、ジキルさんの冗談を真に受けて、サイトの掲示板にこの曲の感想を書いた覚えがあります。「この曲はすばらしい。例えば短調にドリアなどを交えれば『雰囲気のある曲』はある程度の技量がある作曲家ならば簡単に書けるが、6ペンスで舐めては長調で、しかもハ長調(Cメジャー)だ。Cメージャーで味のある曲を書くとは! イアン・マッケンジーは本物の才能を持った人だ!」と。インターネットの掲示板でも「この小説の巻末に著作権表示が無いけど良いのですか?」と聞いてまわりましたし、一所懸命「イアン・マッケンジ」を検索しましたよ。ネッシー目撃者として検索されただけでした。ジキルさんが書いたものだと知ったときには、たまげましたね。後で、姫野カオルコも同じ人物(ネッシーの目撃者)を検索していた事を知りました。架空の人物として用いる名前としては、問題ないだろうと判断された事を聞いたときには、笑いが止まらなかったです。ちなみに、今でも僕のケータイのメール着信音は、ジキルさん作曲の「6ペンスで舐めて」です。
2007年8月8日