受動態

Daniel Yangの読書日記

No. 627 坂の上の雲(八)/ 司馬遼太郎 著 を読みました。

新装版 坂の上の雲 (8) (文春文庫)

新装版 坂の上の雲 (8) (文春文庫)

 
本日天気晴朗ナレドモ浪高し  明治三十八年五月二十七日早朝、日本海の濛気の中にロシア帝国の威信をかけたバルチック大艦隊がついにその姿を現した。国家の運命を背負って戦艦三笠を先頭に迎撃に向かう連合艦隊。大海戦の火蓋が今切られようとしている。
感動の完結篇。巻末に「あとがき集」他を収む。
解説・島田謹二
  カバーの背表紙を転記  
明治時代(1868 ~ 1912)を描いた歴史長篇小説。僕が読んだのは、全八巻の文庫新装版。完結の第八巻。
文庫新装版の第八巻は序章「敵艦見ゆ」から終章「雨の坂」まで単行本完結第六巻から収録しています。
加えて「あとがき集」として、単行本全六巻の各あとがき、「解説 島田謹二」、「関連地図」が併録されています。
敵艦見ゆ
1905年5月27日午前2時45分日本郵船から徴用した貨客船を仮装した仮装巡洋艦信濃(艦長成川揆[なるかわ・はかる]海軍大佐)ブリッジから左舷の闇の中のバルチック艦隊の病院船アリョールの燈火確認。接近。闇が白み始めたとき、無灯火で航行していたバルチック艦隊の主力に中にいることが判明。「敵艦見ゆ」の報を発した。
午前6時三等巡洋艦和泉がバルチック艦隊哨戒をバトンタッチ。
バルチック艦隊の煙突は全て黄色」
と打電。
抜錨
午前五時五分。信濃丸の「敵艦見ゆ」を対馬の第三艦隊旗艦厳島が暗号で中継打電「タタタ タタタタ」
旗艦三笠では加藤参謀長が「艦隊に出港を命じます」と言い、東郷が「うん」と言った。
大本営に向け「天気晴朗ナレドモ浪高シ」と電文発信。
沖ノ島
第一艦隊、第二艦隊も出撃。
2017年にユネスコ世界遺産に登録された「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の「沖ノ島」から見えた海戦の様子。小説執筆当時存命だった沖ノ島のたった二人の住人(主典宗像繁丸と使夫)のうちの一人、使夫の佐藤市五郎氏の話と、社務所日記から執筆されている。
運命の海
午後一時、第一艦隊の第三戦隊合流。続いて、バルチック艦隊の行動を逐一報告していた第三艦隊の主力第五戦隊、第六戦隊も合流。これで、連合艦隊の主力が全て揃い、海戦の準備万端である。
午後一時五十五分、Z旗掲揚。
午後二時二分。バルチック艦隊との距離8,000m。三笠取舵一杯。いわゆる「丁字戦法」発令。
午後二時七分。距離7,000m。バルチック艦隊砲撃開始。
午後二時十分。三笠右舷砲撃開始。続いて回頭を終えた連合艦隊の全右舷百二十七門の主、副砲の砲撃開始。
第一戦隊の殿しんがり装甲巡洋艦日進前部主砲二度目の着弾で、山本五十六は左手人差し指と中指を欠損、左大腿部に重傷。
砲火指揮
日露戦争中に格段に向上した日本海軍の砲火指揮について。
死闘
戦況を決めた最初の三十分。
ロシア艦隊の運動を誤認した第一戦隊の左八点の一斉回頭午後二時五十八分と第二戦隊の面舵(右まわし)。
午後三時十分、ロシア第二戦艦戦隊旗艦オスラービア沈没。
午後五時三十分、重体のロジェストウェンスキー駆逐艦ブイヌイに移送。
午後七時二十分、スワロフ沈没。
鬱陵島
27日の日が暮れた後、東郷の方針により、駆逐艦隊・艇隊は夜襲。全艦隊は鬱陵島へ集合すべく移動を開始した。
ロジェストウェンスキー駆逐艦ベドーウィに移動。
駆逐艦漣がベドーウィを拿捕。ロジェストウェンスキーは捕虜になった。
ネボガトフ
第3太平洋艦隊の司令官ニコライ・ネボガトフ(1849~1922)が降伏し、捕虜になるまで。
その他の艦の結末が語られます。
雨の坂
日本海海戦の結末、および戦果のまとめ。
6月3日、佐世保の病院に収容されていたロジェストウェンスキーを東郷が見舞う。
9月11日、佐世保で三笠が爆発事故、着底。
10月14日、ポーツマス講和条約批准。
10月21日、秋山騎兵団解散。
10月23日、凱旋の奏上
12月20日連合艦隊解散式
後、秋山真之秋山好古の没するまでを語って、大長篇小説は終わります。
あとがき集
1978年までに出版された単行本は全六巻。
それぞれにあとがきがあったようです。
全八巻にまとめられた文庫では、まとめて本第八巻に
あとがき集として1から6までが掲載されています。
と、言うわけで、これから購入する方々は第二巻を求めるときに、第八巻も一緒に購入することをお勧めします。第二巻の「威海衛」之章を読み終わったら、あとがき集の1を読むといったのが具合が良さそうです。
首山堡と落合
全集にまとめられつつある段階で、訂正が間に合わない事実誤認を報告している。
すなわち、遼陽会戦での第二軍の無謀な首山堡攻撃の発案者が、落合(落合豊三郎1861~1934、第二軍参謀長、少将)ではない、とわかった点である。
この経緯を説明したもの。

双眼鏡

「運命の海」で「東郷司令長官だけが、ツァイス社製プリズム式双眼鏡を持っていた。」と記されています。
鬱陵島」では、掃海艇乗りの塚本克熊少尉が、掃海艇触雷、沈没後三笠に収容され、東郷司令官が首から提げたこの双眼鏡を欲しいと願ったエピソードが紹介されています。
年収と同額のこの双眼鏡を発注し、なんと日本海開戦直前の対馬で納品、受領。
新たな任務として、漣に乗船。ロジェストウェンスキーバルチック艦隊司令部員を乗せた駆逐艦ベドーウィを発見する偉業をなします。
このカールツァイス双眼鏡を紹介しているホームページがありました。
このページから、
で、写真とともに紹介されています。
記念艦三笠での展示です。連合艦隊旗艦の三笠は、現在横須賀の三笠公園に接岸保存されて「記念艦三笠」として洋上博物館になっています。
「5倍/10倍変倍双眼鏡」と言うことです。
ちなみに、僕の約13倍の望遠レンズで月を撮るとこんな感じです。

f:id:Daniel_Yang:20190416003500j:plain

pentax k-xのダブルズームレンズキットのDAL55-300mmズームレンズの最大望遠で撮ったものです。目視がおおよそ35mm程度なので、35mmフィルム換算450mmの望遠は、約13倍になる計算です。それでも、月ってこんなもんです。大写しにはなりません。
と、言うわけで、
 ウェブサイトをチェックしました。
うぅ。関東に住んでいるうちに、一度でも行ってみれば良かった。
年末12/28~31以外は年中無休。9:00~ 16:30ないし17:30まで観覧可能。
「艦内での撮影:他の見学者の迷惑にならない範囲で可能です」って。ほとんど撮り放題。僕の安い一眼レフのレンズは近くが撮れない(゜´Д`゜)ので、接写できるレンズを持って一度行きたいにゃぁ。
中甲板の右舷、副砲1番砲室の日本海海戦操艦シミュレーターを操作してみたい。
同じくMemorial Ship MIKASA記念艦三笠がバルチック艦隊東航Eastbound Deployment of the Baltic Fleet Ver1.0動画を公開してます。

下瀬火薬

「雨の坂」で戦後、三笠が弾薬庫の爆発事故で死者339名を出して着底(沈没)したエピソードが語られます。
小説では、原因不明とされていますが、僕が今大急ぎで勉強したところでは、下瀬火薬を充填した砲弾の内面コート劣化で、砲弾の鉄と炸薬のピクリン酸が接触し、化学反応。自然発火で爆発。と理解しました。
 
下瀬火薬は炸薬として純ピクリン酸(2, 4, 6-トリニトロフェノール)を採用。
対戦相手のロシアや、他の国は危険なピクリン酸を緩衝材と混合し、安全な形で炸薬としています。
金属と反応しやすいピクリン酸を緩衝材などを混ぜないで、そのまま炸薬に使用しているのが下瀬火薬の特徴です。
で、小説にあるように、着弾した軍艦の甲板などと化学反応して、強力な火力を発揮するみたいです。
ところが、砲弾のケースも金属(鉄)なので、火薬と砲弾のケースが接触しないコートが必要。砲弾の内側に漆を塗り、さらに炸薬は紙筒につつんで充填。砲弾として使用できるようにしたところが下瀬火薬(純ピクリン酸を炸薬に使用したキャノン砲の砲弾構造)の特徴のようです。
 
僕のso-netでのサイトとほぼ同時期開設で
サイト齢二十年以上の個人ウェブサイト
の「からむこらむ」の「その237:大砲燃ゆ」が良い解説になっていますので、是非ご参照下さい。
そこで、ピクリン酸は、2,4,6-トリニトロフェノールで、そもそも酸であるフェノールに、ニトロ基を付けるから酸が強くなり、金属との反応性が増すのだよ。ということです。
久々に有機化学の教科書「モリソンボイド第六版(中)(中西香爾、黒野昌庸、中平靖弘訳東京化学同人1994/5/16)」を開きました。
有機化学〈中〉

有機化学〈中〉

 
酸解離定数Kaは、
フェノール:1.1×10-10
o-ニトロフェノール:600×10-10
2,4-ジニトロフェノール:1,000,000×10-10
2,4,6-トリニトロフェノール:非常に大きい
だそうです。
通常の金属の酸化反応だとすると、反応式は次のようになるでしょうか。
Fe+2C6H3N3O7
→Fe(C6H2N3O7)2+H2
で、爆発すると
→FeO+3N2+4H2O+9CO+3C
てなところでしょうか。

全体をとおして

僕の近世史感を変えました。
それまで、明治から第二次世界大戦での敗戦までを「戦争をする悪い時代」
戦後「民主主義の良い時代」
と認識していました。
小学生の時に、そのように教わった覚えがあります。
が、しかし。違いました。
第二次世界大戦の時の日本は何がまずかったのか。」
と、考えるようになりました。
 
宮沢喜一元首相がNHKの何かの歴史番組でマッカーサー元帥が解任されたときの感慨深さを語っているのが、僕の印象に刻まれているのですが、それは「シビリアン・コントロール」が実行されるのを間のあたりにしたときの感慨。
宮沢喜一元首相は、1942年に大蔵省に入省して、敗戦時には戦争保険を担当していました。東久邇宮内閣で蔵相秘書官に、引き続き池田蔵相の秘書官として講和条約の準備交渉に携わり、サンフランシスコ講和会議の全権随員として参加。
その人が、朝鮮戦争末期にマッカーサー元帥が、シビリアン・コントロール違反を理由に、トルーマン大統領から更迭を言い渡された事件に衝撃を受けている。
つまり、戦争中の日本では考えられないことだった、と理解しました。
 
司馬遼太郎の「坂の上の雲」では、明治の軍隊が全力で戦ったことを示し、昭和の軍隊との比較を明確にしたかったのではないか、と思いました。
たとえば、本第八巻で、東郷平八郎日本海海戦において、当然のように自分が戦死するものだと思っていた節があるように記述していたり、満州軍の本営でしきりに講和への算段を大本営に打診しているような点です。
満州事件、5・15事件や2・26事件、日中戦争の開戦など、文民統制がまったく効かない状態を、日露戦争当時の軍との比較で、明らかにしたかったのではないか、と思いました。
「戦争をする悪い時代でした。」
だけでは、今後ポピュリズムと言う名のシビリアン・コントロール破壊を回避できないのではないですか。
と問いかけられたように思いました。
2019年 4月14日
No. 627