受動態

Daniel Yangの読書日記

No. 518 ミルキー/林真理子著 を読みました。

ミルキー (講談社文庫)

ミルキー (講談社文庫)

 
前夜祭  実は先週、見合いをしたのだと陽一は美枝子に告げた。
立派な肩書きと収入を持ち、対面を重んじる家庭に育った陽一と、離婚歴のある年上の女、美枝子のつき合いを描いています。「対面など気にせず、とっとと結婚してしまえばよいではなか。」「結婚なんかせずに、その楽しいつき合いを続けるのが良いよ。」と言いたくなる正反対の二つの感想がありました。
聖夜  妻の美也子が指定してきたのは、二十四日の午後七時、クリスマス・イヴの晩である。
結局のところ、と僕は思うのですが、過ぎ去った自分の人生を振り返ると、「過ぎ去った」と感じられること自体が、ありがたい能力だな。とつくづく思いました。おそらく、客観的に評価すると「あきらめ」と言う事が出来る能力と言うことになるのかもしれませんが、死ぬまであきらめられず、憎しみを墓場まで持ち込むよりは、こうして許し合える人の能力が貴く感じられます。
鈴木君のこと  なんとあの鈴木君が医者になったというのです。
高校の同級生から送られてきたメールに、どう対処するか。種村さんの選択は? 職業や家庭の制約の範囲内で出来ることは限られて来ます。それらを変化させる事を含めて可能性を考えるのが若さならば、もう若くは無い、と考えて、その制約の範囲内で楽しく過ごすことを考えるのが大人と言うことでしょうか。他人事ながら、「人に迷惑をかけないなら、それで良いではないですか。良かったですね。」と、僕は思いました。
  夢の中に北川浩が出てきた。彼は、二十六歳になる娘、里美と結婚しようとしていることがわかる
しかし、現実は違った。抑えられない欲望は、適度に消化した方が良いのだな。と思いました。
ミルキー  産休明けで諸橋陽子が職場復帰した。広告代理店に勤める奥村裕一は、妊娠前野陽子と数回関係を持っていた。子どもを産んで、以前より美しくなった彼女を、裕一は誘うが……。
何事も経験だ。と思いました。
見て、見て  離婚届けに印を押したとき、まっさきに顔を思い浮かべたのは、父親でも母親でもない。もちろん夫のはずがない。別れた前の男だったと朝子は言う。
異性を目の前にして、これからのことをTVドラマのように空想するのは楽しいものです。現実には、その通りになることはほとんどありませんが、ある程度それに近いストーリー展開になったとき、空想からはずれる瞬間に自分がどう振る舞うか。想像してきたことと違うので、とっさに「こうすればよい。」とは思い浮かびません。その時を楽しめると、人生は楽しいかも。と思いました。
ドミノ倒し  夫の圭一は、酒癖は悪くない方である。
どんな人でも、ある程度は自分の「常識」を持っていて、多少の違いがあろうとも、おおよそ他の人も同じような「常識」を持っていると、錯覚しながら生きているように、僕は思います。決定的な価値観の違いに接して、相手を「非常識」となじるか、「そう言う人もいるんだな。」と理解を示すのか、その対応の仕方で、懐の深さが分かるというものです。狭量な人には、いつか罰が下ってほしい。悪趣味かもしれませんが、僕も、時々そう思います。もちろん、自分のことは棚に上げて。
うなぎ  めったに来る店ではないが、田村久美子はその店を気に入っていた。綺麗な店内でほどほどの値段の鰻を出してくれる。
現状の職業、現状の収入、現状の家族を全て肯定し、納得している人というのは、危ういところが無く、嘘もつかず、つきあいやすいですね。見栄を張って、背伸びをしている人は、どこかに無理が感じられ、危険な香りがすることもあります。さて、恋人としては、その中間のどの辺のところがちょうど良いのでしょうか。僕は、どちらかと言うと、虚勢を張らない人を好みます。
ワインの話  私が後藤優子と知り合ったのは、取材がきっかけだった。バブル景気にワインと寝た女を優子の物語
飲めば無くなってしまうものに時間や、お金や、人生を掛けてしまう人の、潔さが分かったような、分からないような、と、感じる僕は、小市民なんでしょうね。
器量よし  津田昌子から、毎年送られてくる年賀状を目にするたび、その年賀状から羨望、嫉妬、かなり強い侮蔑など複雑な感情をもたらされるかなえ
結婚し、子どもを育て、死んでいく。やたらと短く人生をまとめると、そう言うことになりますが、同じ事をするなら、楽しく生きたい。それは、僕もそう思うのですが、楽しく生きることだけを目的にしてしまうと、何も出来ない。この一遍から、僕はそんな教訓を読み取りました。
仲よしこよし  内村浩一郎が、妻の両親とあまりうまくいかなくなったのは、やはり婿養子の一件からであろう。
親と仲が良すぎる配偶者には要注意です。
たそがれて  夫の浮気を知ったのは、よくある話ですがメールがきっかけでした。
人は、誰でも寂しい。配偶者や他の家族に、その穴埋めを求めて満願かなう人はおそらく幸せなのでしょう。でも、その穴が埋まらないからと言って、生きていけないわけではないし、必ずしも幸せで無くてもそれほど困るわけでもありません。でも、幸せな方が良いに決まっています。では、家族以外の人にそれを求めた場合、家族よりも当てになるものか。冷静にそう考えれば、誰も間違いを起こさないし、全て周到に考えて出した答えに沿って人は生きるわけではない。ある意味で、人間らしさがそこに存在する。人の振る舞いを見て、それに気づき、また自分も同じだと思ったときに、人生の奥深さを知るのかもしれませんね。
戦後、新憲法の下で婚姻の自由が認められても、自由に恋愛結婚が出来るようになるまでは、だいぶ時間が掛かりました。つまり、僕たちのほとんどは、まだ恋愛結婚では無い結婚で出来た子どもか、せいぜいその孫と言うわけです。そして、又別の表現をすれば、恋愛結婚第一世代又は、せいぜい第二世代と言うわけです。
自分で選択した、と言うことは、「他にも選択の余地があった。」と言うことです。それを潔しとあきらめるか否かは、自分次第。長年自由恋愛で生をつないできた人たちは、これを当たり前の事として受け止めるのかもしれませんが、僕たちには相当重いプレッシャーになるのかもしれません。
あきらめられない人、あきらめられる人、うまくいく人、失敗する人。今僕たちが生きている人の世は、本当にいろいろな生き方をする人たちが混在しているのだな。と思った一冊でした。

2009年5月26日
No.518