No. 505 子どもたちは夜と遊ぶ(下)/辻村深月 著 を読みました。
デビュー作「冷たい校舎の時は止まる」(講談社ノベルス2004/06/05)
講談社ノベルス版を読んだときには、僕は浅葱とともにトリックに嵌ってしまい「これでは、感想が書けない!」と悔しかったので、文庫で読み返しました。
今度は、冷静に木村浅葱を操り、翻弄する「i」とは誰なのか? ともどかしく思い、月子に「彼を救って!」と叫びながら読み終えました。
下巻では、ほぼすべての謎が解けてストーリーは完結します。
前作に引き続き、「こんなに惜しみなくネタを使ってしまって、大丈夫なの?」と思いましたが、実際には、その後順調にミステリーの分野以外にもリアリティー小説として「スロウハイツの神様」(講談社ノベルス2007/01/11)
などの傑作を書いているので、その点は安心です。
この小説は、連続殺人事件を犯罪者と被害者の近親者の両面の立場から描いています。
僕は、どちらかというと一方の犯罪者、殺人を犯す浅葱の立場から読みました。犯罪モノと言えば、被害者か、それを追う刑事の立場から読むものだと思っていた僕にとって、これは我ながら意外な読書となりました。
これが、辻村深月作品共通の独特な味わいであり、この小説の特色と言えると思います。この特色については、文庫の巻末でアニメーション監督の幾原邦彦が適切に解説しています。悔しいけれど、「月子が浅葱を救うことは出来ないのかな。」と思いながら読んでいた僕は、解説で述べられているように、僕も「誰かに救ってほしい。」と思っていることに思い当たりました。
話は逸れますが、童話の残酷な場面(たとえばオオカミが赤ずきんちゃんを食べる、とか)を子供がどう読むかが話題になったとき、短絡的に「子供には聞かせるべきではない」と言う意見がある一方、「子供は、助けてもらえる赤ずきんちゃんの立場に立って話を聞くから大丈夫。」「怖いお話を聞いても、現実世界では大丈夫であることを学ぶから良い。」などの意見があることを知りました。
舞い戻って「子どもたちは夜と遊ぶ」では、僕は殺人を犯す浅葱の立場に立って読みましたが、僕は、実際にこんな殺人を犯すわけではありません。その前提に立った上で、救いを見いだすこの作品は、大人のための童話と言う側面があるように思いました。
この感想文は、楊のペンネームでamazonに投稿したものに加筆したものです。
2008年9月13日
No.505