受動態

Daniel Yangの読書日記

No.537 いのち ~生命科学に言葉はあるか/最相葉月を読みました。

いのち 生命科学に言葉はあるか (文春新書)

いのち 生命科学に言葉はあるか (文春新書)

本書は、2000年に成立した法律ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律の審議にも参加した(国会に召致され意見を求められた)著者の経験に則し、専門家十一人との対話を収録した一冊です。

序章 ドリーの遺言
本書を書くきっかけを紹介し、本書の章立てを説明しています。
第1章 痛い、もやもやしたもの
哲学者(臨床哲学・倫理学)鷲田清一(大谷大学教授、大阪大学名誉教授。1949/ 9/ 2~)との対話。クローン猫の報道をきっかけにと語り合ったもの。
第2章 宇宙のなかの人間
生命科学者柳澤桂子(1938~)との対話との対話。特に非配偶者間人工授精を身近に見る機会のあった氏の話に考えさせられる事が多く感じました。
第3章 いのちの始まりと宗教の役割
宗教学者島薗進(東京大学大学院人文社会系研究科教授1948~)との対話。
第4章 科学者の社会的責任
日本で最初に受精した胚からヒトES細胞の株の作成方法を樹立した発生学者中辻憲夫(京都大学教授。理学博士。1950/ 3/26~)との対話。
第5章 動物と人間の関係
ウイルス学者山内一也(東京大学名誉教授。研究成果は、日本獣医学会ウェブサイトに掲載されている、180回の連続講座人獣共通感染症の全文牛海綿状脳症(BSE)でお勉強できます。特に第26回 牛海綿状脳症とクロイツフェルト・ヤコブ病の関連:英国での最近の動向のみでも狂牛病の概要を勉強できます。)との対話。
第6章 センス・オブ・ワンダー
中国奥地をフィールドワークするナチュラリスト荻巣樹徳(東方植物文化研究所主宰。1996年英国王立園芸協会のヴェイチー記念ゴールドメダル。2004年吉川英治文化賞。1951/ 1/22~)との対話
第7章 日本人の死生観
神戸みどり病院理事長(当時)額田勲(1940/ 5/29~2012/ 7/12)との対話
第8章 先端医療を取材して
ノンフィクション作家後藤正治(神戸夙川学院大学元学長1946/12/13~)との対話
第9章 宇宙で知る地球生命
黒谷明美(JAXA : 宇宙航空研究開発機構の子供向けページ宇宙科学研究所キッズサイトキミにもなれる?!宇宙のお仕事ガイドブックで、生き物を調べる黒谷明美さんとして紹介されています。1958~)との対話
第10章 遺伝子診断と家族の選択
歴史学者のアリス・ウェクスラー(Alice Wexler)東京大学大学院 情報学環・学際情報学府准教授武藤香織(東京大学医科学研究所公共政策研究分野の教授1970~)との対話。
第11章 進化と時間の奇跡
古澤満  との対話古澤満の研究は、株式会社ネオ・モルガン研究所古澤コラムで紹介されています。
終章 未来
二〇〇三年から出版された二〇〇五年までの状況を概説し、現時点での著者が辿り着いた結論を述べています。

 

たいへん感じるところの多い一冊でしたが、
特に挙げるとすれば二点あります。
一つは、先ず「自分はどう考えるのか」と言う問題を考えた上で、
「法規制はどうあるべきか」
と発展させて考える必要性への気づきでした。
二つめは、哲学や宗教を学者として研究している人の話を読んで、その大いなる意義を知りました。

 

一つめは、先日、夫婦別姓についての内閣府世論調査結果を読んでいて思ったのですが、
「どんな法律を施行するべきなのか。」
と言う問題は、学校の試験や入試のように、一つの正解がある問題では無い、と言うことです。また誰かにとって正解でも、他の誰かにとっては不正解という場合もあります。それでも
「では、結論を出さないことにします。」
と言うわけにはいかず、
「このように決めます。」
と結論を出すべき問題である。と言うことです。

 

この先、だんだんと本書の感想からは逸脱するのですが(汗)

 

このような問題に結論を出すのが、国会議員や、地方自治体の議員さんである、と思い直すと、選挙の時に投票すべき人は誰か?と言う答えも、また違ってきます。
それは、例えば、
「自分と同じ意見の人に議員になってもらいたい。」
と言うのではなく、
「多くの意見を聞いて、ベターな結論を出せる人に議員になってもらいたい。」
と言うことです。

 

「おれは、ホントは、もっと別のやりかたが良いと思うんだけれど。」
と、思っていても、法律案がまとまったならば、愚痴としてでも、それを口に出さない人。
これが、人の意見をまとめる政治家に必要な資質なのだろうな。
と思いました。

 

本を読んでの感想に戻ります。
二つめ。
「哲学」や、「宗教学」の意味を知りました。
学校の授業で「倫理」とか、「哲学」を取った記憶はあるのですが、授業を受けながら「何の役に立つのだ?」とワケわからないまま学んでいた記憶があります。
そんな記憶と、ドイツの近代史を趣味で学んでいたときに、「第二次世界大戦を終えて、ドイツ国民の責任として認識すべき事は何か?」と、戦後のドイツで盛んに哲学が語られた時期があること思い出したわけですが、政治の分野で、一つの合理的な正解が無いことに、結論や方針を出す必要が生じたときに、哲学が必要なのだな。と認識を新たにしました。

 

僕は会社でとても頭を使っているつもりになっていましたが、僕が判断しているのは
「これが、最も効率が良いやり方だ。」
とか、
「これが、一番低コストになるはずだ。」
とか
「これが、最高の性能が出る実験項目だ。」
など、判断基準がはっきりしているものでした。
そうで無いもの(判断基準が複数あり、一概に「こうするべきです。」と言えない判断)は、経営判断として、上司にゆだねるか、営業判断として、営業部門に決めてもらう、など他の人に判断をゆだねていることに思い至りました。

 

分業として、自分が得意な分野を担当している、自分の仕事のありがたみ(自分にフィットした仕事を任されていると言うのは、とてもありがたいことです。)を痛感すると共に、他の人に頼っている部分が、実は自分は苦手な部分なんだろうな。とこれも、ありがたみを感じた次第です。

結局、本の感想にはなりませんでした。m(v_v)m

2013年 3月10日
No.537