No. 558 セラピスト/最相葉月 著 を読みました。
心の病は、どのように治るのか。箱庭療法の意義を問い、治療の変遷を辿り、著者自らカウンセリングを学んだ。そして浮かび上がってきたこと。心の治療のあり方
密室で行われ、守秘義務があるため、外からはうかがい知れない。呼称や資格が乱立し、値段はバラバラ。「信頼できるセラピストに出会うまで5年かかる」とも言われる。「心」をめぐる取材は、そんなカウンセリングへの不審と河合隼雄を取材した雑誌の、ある論文をきっかけに始まった。うつ病患者100万人突破のいま、現代人必読のノンフィクション
単行本の帯より
たいへん勉強になりました。
先ず、精神医療と言うと精神分析や心理テストをイメージしていたのですが、実際の治療は分析ではない、と知りました。
主に、二種類の治療があります。
一つは、カウンセラーによる心理療法。
もう一つは、精神科医による投薬を含む治療。
精神科医による治療は、健康保険の適用が可能だが、対処療法に傾きがち。
カウンセラーによる心理療法は、料金が様々なのに加え、良いカウンセラーに出会うのがむずかしい。
それぞれの状況を知ることが出来ました。
望ましくは、病状、症状によって選ぶか、またはどちらに掛かっても、医者やカウンセラーの判断で他方を紹介してもらえるのが好ましいと思いました。
いずれにしろ、風邪をこじらせたときや、怪我をしたときに、「とりあえず病院に行って、医師に診てもらおう。」というノリで適切な治療が受けられる事は期待できず、治療を受ける側にも知識が必要なのが現状だと理解しました。
また、自らカウンセリングを受け、治療を求めた体験を披露しています。いざ、自分が診療を受ける必要が生じた際にも参考になると思えます。特に箱庭療法と絵画療法を逐語録として詳しく記しているのが親切に感じられました。
本書は、また卑近な内容だけではなく、かつて社会から隔絶する事だけが目的だった入院病棟を過去のものとし、治療方法を開発してきた人々の努力の歴史も取材しています。
また、もっと長く、人類の歴史までスケールを広げ、単なる病気として捉えるのでは無く、人の個性として捉える事を提案している(ように僕には感じられた)終章に感動しました。
例えば、近眼は眼鏡を掛ければ眼自体の治療は不要なわけですし、全力疾走出来る身体でなくても、社会生活に不都合はありません。心の病気も、気に病むだけでなく、例えば個性と捉えることによって、自分の特性にあった職業に就くことを考えたり、社会的な役割を引き受けることが可能だと気づきました。
僕の周囲を見渡してみると、光学設計のむずかしい計算を難なくこなす、信じられない頭脳の持ち主は、人と目を合わせてしゃべることが苦手で、例えばそれを欠点として指摘されることもあります。でも欠点だけを取り上げて、活躍の場を奪うことは同じ職場の仲間としても損失である事は明らかです。
僕の読書に偏り過ぎているかも知れませんが、人の長所に目を向けることの大切さを改めて感じた一冊でした。
以上は、おおよそamazonに投稿した書評です。
次に、個人的な感想を述べます。
実際のカウンセリングの様子を具体的に知ることが出来ます。
加えて、僕が興味深かったのは、最相葉月のファンとしてです。カウンセリング中に中井から雑談で最相の著作に触れられて、最相が狼狽えながら受け答えをしたり、応えられずにいたことを本書で記している点です。
先ず、評価の高い著作であっても、書き上げた後は、それを越えていこうと別のテーマを探す方針だ、と記している箇所に膝を打ちました。
、「星新一」(新潮文庫2010/ 3)の順に読みました。それぞれ丹念な取材で、深い知識に裏打ちされた驚愕のノンフィクションです。これだけの知識と人脈が出来たら、その方面の専門家として一生を打ち込んでも良さそうなものです。ですが、尾を引かずに、大書を書き上げた後、全く異なるジャンルに取り組みを移すのは、「前著を越えていく」と言う方針があるのだ。と納得したものです。
本書とはあまり関係ありませんが、奇抜な職種転換、配置換えを何度も経験している僕は、そのたびに、へなちょこからスタートするのが大変なんですが、最相葉月の心構えを見習って、めげずに頑張ろうと思います。
次に、「絶対音感」
について。簡単に総括して「『音楽の才能とは無関係』というのが私の結論だった。」と述べている点です。僕は、単行本(1998)で読んで以来、深くは読み返す機会がありませんでしたので、「あぁ、そうだったな。」と記憶を新たにしました。
先日『聴覚障害のある作曲家が「絶対音感を武器に渾身の作曲」』てなドキュメンタリーTV番組のキャッチコピーを耳にしたときに、「相対音感があれば、作曲出来るんじゃねぇ?」「適当な音階で作曲した後、楽器の都合にキーを合わせれば良いじゃん。」と思ったのですが、そう思えるのも、著者の「絶対音感」を読んでいたからだったのだ。と思い直しました。
実際に絶対音感が必要なシーンと言うのは、(「絶対音感」に記されている内容ですが)音楽の勉強をしている人が、音当てのテストをされた時くらいでしょう。便利なのは、コンサートで初めて聴いた曲に「この、メロディーが良いね。」と述べる際に音階を特定出来るくらいです。ですが、高校の音楽の授業で習いましたが、「ド、レ、ミ」なる音階は、正しくは、キーを「ド」としたときの相対音階を表現するものです。つまり、初めて聴いた曲のスケールを特定して、メロディーを表現する作業ですから、絶対音感は不要です。スケール(例えば、短調か長調か、キーはどの音か)を特定する能力は、絶対音感とはたぶん関係がありません。
それに、実際にコピーするなら、楽器を持って確認するでしょうから、やはり、絶対音感は不要です。
次に「なんといふ空」
です。
映画「ココニイルコト」
の原案として著者の名を世間に知らしめた著作なのですが、書き下ろしの主著ではありませんし、最相葉月らしくないフツーのエッセイだったので、ここに感想文をアップせずスルーしてましたm(v_v)m
著者にとって、こんな意味がある作品だったのだ、と認識を新たにしました。読み返そうと思います。
最後に伝記「星新一」
です。本書では特に触れていないのですが、僕が「星新一」を読んで気になっていた謎解きが出来ました。
と言うのは、製薬会社のトラブルを家族に対して一切打ち明けない星新一に対して、めずらしく著者が感想を述べている箇所が気になっていたのです。
星新一の態度について、僕は「昔の男の人らしい態度だな。」と感想を持ちました。しかしながら、著者は「もっと打ち明ければ良いのに。作品にも、良い影響があるのでは。」と言うような意味のことを(記憶に頼ってます>俺)述べています。
僕は、「なんか、最相葉月らしくないな。」と疑問を持っていたのです。
本書の「なんといふ空」について述べた箇所で、これが、最相葉月本人の心構えかもしれないと思いました。著者、著作への理解が深まったように思え嬉しく感じました。
嬉しく感じていてなおかつ、僕は星新一と同じで、困ったことを話す相手は居なくても結構です。と言うスタンスには変わりがありません。いや、話すことが出来る相手がいるに越したことは無いですが、敢えて求めずとも、平気なように工夫していくスタンスでまいります。
と、言うわけで自分の頑固さを確認した所で、(もし、精神的に困った事があったら、ここを修正するべき。と、記憶するに留めておき)これにて、感想を述べ終えることにします。
2014年 6月16日
No. 558