No. 609 坂の上の雲(三)/ 司馬遼太郎 著 を読みました。
日清戦争から十年 じりじりと南下する巨大な軍事国家ロシアの脅威に、日本は恐れおののいた。「戦争はありえない。なぜならば私が欲しないから」とロシア皇帝ニコライ二世はいった。しかし、両国の激突はもはや避けえない。病の床で数々の偉業をなしとげた正岡子規は戦争の足音を聞きつつ燃えつきるようにして、逝った。カバーの背表紙を転記
明治時代(1868 ~ 1912)を描いた歴史長篇小説。僕が読んだのは、全八巻の文庫新装版。第三巻。
文庫新装版の第三巻は、「十七夜」「権兵衛のこと」「外交」「風雲」「開戦へ」までが単行本の第二巻。以降は単行本第三巻から収録しています。
- 十七夜
- 1900年(明治33年)秋山真之32歳。米国駐在武官任務後に命じられていたイギリス駐在を終え帰国。常備艦隊参謀に異動。旗艦「常磐」乗艦。翌年海軍少佐に昇進。1902年海軍大学校教官、戦術教官に異動。
- 九月。正岡子規34歳。死去。
- 権兵衛のこと
- 権兵衛とは山本権兵衛([やまもと・ごんのひょうえ]1852~1933、海軍大将)。この章では、主人公たちを離れ、日清戦争終結後から、日露戦争開戦までの海軍改革を山本権兵衛中心に語ります。
- 外交
- 日英同盟(1902/1/30)調印までの経緯。
- 風雲
- 1902年(明治35年)広瀬武夫(1868~1904)帰国。
- 秋山真之にロシア海軍の事情を話す。
- 1903年(明治36年)秋山好古44歳。4月、清国駐屯軍守備司令官から騎兵第1旅団に異動し帰国。
- 9月、ロシア陸軍のニコリスクでの大演習に招待され、大庭二郎(1864~1935)歩兵少佐とともに参観。
- 6月、秋山真之35歳結婚。
- 10月常備艦隊参謀に異動。第一艦隊参謀も併任。日露戦争を想定して、連合艦隊司令長官に内定した東郷(東郷平八郎。1848~1934)と面談。
- 開戦へ
- 章前半は、児玉源太郎(1852~1906)の金策。渋沢栄一(1840~1931)、近藤廉平(1848~1921)への働きかけ。そして、内務大臣を辞して降格人事となる参謀本部次長への就任。
- 後半は、日露の開戦回避を模索する交渉経緯を描写している。
- 砲火
- 1904年2月6日日本はロシア側へ国交断行を通告。
- 9日仁川沖海戦。
- 旅順口
- 2月9日旅順港での日本の駆逐艦隊の魚雷攻撃から、
- 3月27日の第二回旅順口閉塞作戦まで。広瀬少佐戦死。
- 連合艦隊参謀長海軍大佐島村速雄(1858~1923)のもと、秋山真之が活躍を始めます。
- ただし、緒戦では旅順口閉塞は東郷に棄却され、その後の閉塞作戦発案時には、勝算がないことから反対。
- 第二回旅順口閉塞作戦の発案者は有馬良橘([ありま・りょうきつ]1861~1944)中佐。連合艦隊参謀。
- 陸軍
- 2月9日第一軍の第一二旅団仁川へ上陸。
- 23日日韓議定書締結。
- 4月30日鴨緑江会戦。
- 5月26日南山の戦い。
- 6月3日得利寺に先行した秋山騎兵旅団による攻防まで。
- 不利な戦況を顧みず、退却もしない秋山の描写を面白く感じました。
-
「きょう、退却を意見具申されたときほどこまったことはなかった。なるほど、戦術的にはそうさ。しかし戦略的には退くわけにはいかんので、きこえぬふりして寝てやった」
- と副官に言うシーンが印象的です。
- マカロフ
- 3月8日ロシア太平洋艦隊司令長官にマカロフ([ステパン・オーシポヴィチ・マカロフ]1848~1904)就任。
- 秋山真之がロシア艦隊の運動調査を下命。
- 4月12日小田喜代蔵(1863~1912)中佐機雷敷設作戦実行。マカロフが座乗した旗艦、戦艦ペトロパブロフスクが敷設機雷で轟沈。マカロフは艦とともに戦死。
- 翌月は逆に日本海軍の触雷轟沈が相次ぐ。
- 5月12日水雷艇第四十八号艇、
- 14日通報艦宮古、
- 15日戦艦八島と初瀬。
- 同日二等巡洋艦吉野が衝突で沈没。
- 通報艦竜田擱座。
- 16日砲艦大島が衝突で沈没。
- 17日駆逐艦暁触雷沈没。
客観的な外交分析
物語としては、開戦前にロシアが日本を侮って油断していることを示しているのですが、
現在の日本を取り巻く外交情勢を考える上では
「海外の専門家の分析」=外からの視点
が国内のマスコミ報道と異なる場合があることに思い至りました。
現代でも日本の外交問題をニュースで拝見する際、
各国の専門家が日本をどう見ているのかの分析をそれぞれ聞くと、客観的な見方ができる事に気がつきました。
庶民の視点では大概自国の思い込みで、
外国を悪者と決めつけるか、
根拠の無い性善説で「冷静になれ。」
など諭すものを信じ込みたくなりますが、
緊張があるときほど、客観的な判断が重要だ、と思いました。
才あれども徳なし
また「風雲」での秋山真之の描写も印象に残りました。兄好古から酒宴での態度や、海外移動中の博打などをとがめられたり、政府への批判的な態度を示すための結婚など「才あれど徳なし」です。
凡人の読者>俺としては「才あれども徳なし」と言われてみたいものだ。と馬鹿なことを思うのですが、この小説では、日露戦争、特に日本海海戦での秋山真之の活躍を描くので、単純な軍人賞賛小説でないことを示す意味でも、重要な描写なのだろう、と思いました。
無口な司令長官
近年、組織での(年功序列に由らない)実績評価の導入を聞きます。実力主義を目指したものだと思いますが、実際には自己主張が強く、組織内での交渉がうまい人が出世するようです。野球の年俸交渉などのニュースを聞くと「企業に限ったことではないな。」と思います。
プレゼンが得意な野球選手が、米国の選手や、他チームの状況を引き合いに出して球団経営者と交渉し、実績以上の年俸を獲得した、と僕にプレゼンの重要性を語る野球好きの先輩がいました。
つまり、必要な人事上の評価技術がないところに実績評価を持ち込んでいる組織では、評価される側の実力ではなく、プレゼン能力が反映される状態だ、と言うことです。
この章での連合艦隊司令長官人事内定は(結果として、的確な人事であったことから)人事評価のありかたとして、司馬の教訓が聞こえるようです。
無口で地味で、自分の存在をおよそ押しだすということころがない。
必要な人材を、こんなタイプの人も含めて拾い上げる事ができますか、と。
「望まぬ」だけでは、避けられない戦争
「開戦」の章では、前半で戦争遂行のための金策、後半で戦争回避のための外交交渉を描いています。いずれも、単なる「戦争反対」ではなく、具体的に今後日本が戦争を避けるための考える材料になっていると思います。
前半では、戦争に金が掛かること、
後半では、相手がいることを前提にした自国の態度決定を考えねばならぬ事。
どちらも、僕が小学校以来学校で教わってきた反戦=子どもが戦争を毛嫌いするように仕向ける教育では取り上げられた記憶がありません。
子どもへの教育は、毛嫌いするように仕向けるだけでも良いのかもしれませんが、大人が戦争回避を考える際には、カネ勘定も(大まかな勘定だけでも)必要だろうし、相手の意向も踏まえて自国の態度を考える事も必要なのだ、と思いました。
相手国の一部に戦争を望む武器商人や、軍事官僚がいた場合、自国の世論に戦争をけしかけるのではなく、相手国から戦争を仕掛けた形にして「致し方なく応戦」する形で開戦に至るよう、工夫する場合があるようです。そういうケースでも、どうやって戦争を避けるのか、を考える事も必要だな。と。
2019年 3月17日
No. 609
No. 609