ネット社会、クローン技術、臓器移植、生殖医療……現実に進行しているテクノロジーの諸問題。星新一のショートショートには、それらを予言するようなことが描き出されていた。ユートピアか、それとも悪夢なのか。ひとと科学の関係を問い続ける著者が、星新一作品を読み解き、立ち止まって考える、科学と僕らのこれから。星新一の思想を知り人類の未来への想いを伝えるエッセイ。背表紙より
僕が星新一を読み始めたのは、高校一年生、一九八〇年代でした。超音速旅客飛行機「コンコルド」が飛んで、新幹線が走り、家庭用ビデオレコーダーも普及していました。オーディオが携帯できるようになり、テニスラケットのガットは、鯨筋や、シープ(羊の腸)に代わって合成繊維が使われるようになっていました。科学技術バンザイ!である一方、光化学スモッグ注意報を毎日聞き、水俣病やイタイイタイ病の訴訟のTVニュースを見て育った僕にとっては、科学技術が万能ではないのだな。と想いながらも、国語や社会のテストで惨憺たる点数をとる自分を省みて「理系(科学技術)を職業にしなければ、苦労するだろう。」と覚悟を決めたころでした。
星新一の作品で直接的な揶揄として不確かながら記憶にあるのは、ただ一つ(間違ってたらゴメンなさいですが(※))ヘッドフォンオーディオに対して、「いろんな味が何時でも楽しめる飴(?)」でした。(タイトル、収録された本のタイトルは、思い出したときに記します。)教訓は「慣れてしまうと、無くなったときに困るよ。」だと思うのですが、当時長年親しんだテレビをほとんど見ない生活を始めていて「便利だ、無くなったら困る。と思ったものでも、案外無くても平気だな。文明がなんだ。」と思っていたところだったので、あまり気に留めず、むしろ「珍しく直接的だな。」と意外に思ったのみでした。この一編を除いては、直接的な教訓を読み取った覚えがありません。つまり、説教くささを全く感じず、僕はただ単に展開の意外さと、登場人物の気の利いた言動を楽しんでいました。つまり、星新一が予測した未来は、当時の僕にとって、直接的に理解できる危険性に対する警鐘としては、ほとんど感じられなかったものです。
著作から数十年経った今、着実に現実化されているものが多々あり、僕たちは知らぬうちに、それを受け入れていたり、又は星新一が危惧した混乱に陥っているのです。
前置きが長くなりましたが、それが何なのか、を本書は具体例を挙げて教えてくれます。
を読んだときには、もっとも初歩的な事で恥ずかしいのですが、改めて「植物も僕たち動物と同じ細胞から出来た生物なのだ」と思い知らされたのですが、本書では、さらに多岐にわたり、著者の鋭さに恐れ入りました。僕が普段から、得意だと思いこんでいた理系の分野で、忘れがちだったり、気づかないことに振り向き、考えさせる力があるように思います。
2008年2月18日
No.495
(※)訂正します。この作品は「味ラジオ」(新潮社1967/6新潮社刊「妄想銀行」に収録。
です。
ソニーがウォークマンを発売したのは1979年です。
僕の勘違いでした。
逆に星新一が十年以上以前に出現を予想していたことになります。不勉強でスミマセン。
2008年4月6日