受動態

Daniel Yangの読書日記

No. 290 整形美女/姫野カオルコ著 を読みました。

徹頭徹尾、施術される若い女性の立場に立って描かれた小説です。

整形美女 (光文社文庫)

整形美女 (光文社文庫)

 

旧約聖書の登場人物カインとアベルをモチーフにした女子大生整形美女二人の物語

整形美女-繭村甲斐子と望月阿倍子の物語。

むろん、甲斐子と阿倍子の名は、旧約聖書、創世記第四章に登場するカインとアベルになぞらえたものです。
アダムとエバの長男、カインは農業従事者です。弟のアベルは放牧に従事しています。ある日、兄弟は二人揃って神に貢ぎ物を捧げました。農業従事者である長男、カインは畑作物を。放牧業従事者である次男、アベルは、子羊の中から上等なものを。それぞれ神に貢ぎ物として捧げました。神は肉食をお好みであったご様子です。カインが捧げた畑作物を無視し、アベルが捧げたお肉に喜びました。神は、自分が創った人間たちに対して平等であろうとするよりも、先ずは、ご自分の嗜好に忠実でした。カインは、不公平な神を恨むのではなく、弟、アベルに嫉妬し、殺害を計画。実行しました。
  旧約聖書 創世記 4の1~8段落をDaniel Yangが意訳しました。  
もったいぶって聖書を意訳してみました。
ところで、二人のヒロインへの命名「甲斐子」と「阿倍子」をコミカルに感じます。先ず、聖書では男のカインとアベルが、この長編小説では、成人間際のヒロイン二人です。小説がコミカルであることを良しとするか、否かは、読者の好みだと思いますが、とにかく、先ず僕は、コミカルに感じました。そして、コミカルに命名された二人のヒロインが、整形美女になり、その後の運命が語られるのがこの小説です。

 

単行本購入時の感想

先ずは、書店で本書を見付けたときの第一印象から。タイトル「整形美女」から、美容整形を施した若い女性が登場する小説である、と想像しました。また、帯の「整形美女はあなたのすぐ隣にもいるから、本書が社会正義を扱った小説であることを想像しました。偶然にも本書を読み終えた直後二〇〇一年四月十四日土曜日。日本テレビ系列「報道特捜プロジェクト」(十三時半~)で美容整形を取材した特集を見ました。女性雑誌には、美容整形の広告がたくさん出ているそうですね。これらの広告は、医学的なデータを示すものではなく、単に興味を引くための宣伝だそうです。ですから、広告は、手術の安全性について責任を持つものでは無い。とインタビューされた美容整形業界代表者が語っていました。この小説が出版されてから二年。ようやくテレビの報道番組でも取り上げられるようになった美容整形。この小説は、報道番組のようなルポルタージュかと思いました。これが、本屋さんで本書を見つけたときの第一印象でした。

そして、第二印象。と言うか、読み始めての感想は、冒頭に書いたコミカルな意外さでした。この小説は、基本的には喜劇です。甲斐子の真剣さは、観客から見れば滑稽です。この滑稽さが喜劇です。

エンターテインメント小説です。

重複しますが、小説が喜劇であることを良しとするか否かは読者次第だと思います。僕は先ず良しとして読みました。逆に、例えば
「美容整形は悪だ。背徳だ。みんなで糾弾しよう。えい、えい、おー。ふう。スッキリしましたね。」
てな具合に、直情的な内容だったら、すぐさま本書を投げ出していたことだろうと思います。僕の個人的な嗜好ですが、僕は、倫理を語って、誰かを糾弾するルポルタージュを好みません。喜劇で良いです。おかげでこの小説は大変読みやすかったです。若い女性が主人公の小説は、このようでなくてはならぬと思いました。
そして、読み進むに従って、喜劇の「笑い」だけでは無い何かを感じるようになりました。甲斐子と阿倍子は、それぞれ青春の入り口に立ち、歩み始めます。その姿に、期せずして自分のコンプレックスを重ね合わせ、それが解消されてゆくのを感じました。穏やかで静的な「楽」です。有り体な言い回しで言えば、この小説は癒しの小説でした。この癒しは「なぜ、美容整形が背徳なのか」を、阿倍子が語るシーンに、頂点があるような気がします。喜劇を意外に感じても、阿倍子が語るシーンまで読むと、意外に思った印象を忘れてしまう。前向きな気持ちで、日々を生きてゆく、元気の出る小説でした。喜劇ですが、第一印象を裏切るものでは無く、それ以上の小説でした。

 

「美女」と「モテ顔」は異なる

最終的な感想を述べる前にもう一つ。主人公と対極に位置する男の視点に立った感想を述べたいと思います。この小説の主人公二人、甲斐子と阿倍子は女性ですので、男性は脇役です。脇役の立場に立ってこの小説を読むと、女性に対する態度を反省しました。上で引用したTV番組でも「男性は、女性の内面の美を見なくてはいけませんね。」みたいな締めくくりをされていました。僕も、同じように、女性に対する態度を反省しました。でも、僕の反省はTV番組の締めくくりとは異りました。「女性の内面の美を見なくては」ではなく「外面の美を正しく見なくてはいけない。」と言うことです。
美人とは何か? 同じ著者のエッセイ「ブスのくせに!」毎日新聞社1995/10、後に「最終決定版」として集英社文庫に収録
ブスのくせに! 最終決定版 (集英社文庫)
 
でも考察されています。我々男は、美人である事と、好みの女性の外見とを往々にして混同しているようです。この小説を読んでの(男としての)僕の感想は、いわゆる顔立ち、身体付きの整った美人に対する態度を改めようと思った事でした。
なぜ、美人に対する態度を改めたくなるのか。美人ではない女性に対しての反省は無いのか。と思われるかもしれませんが、その点については、上記エッセイか、この小説を読めばわかってもらえるような気がします。ここでは言い訳をしません。

 

小説として秀逸

ようやく、僕のストレートな感想を述べようと思います。
ビックリしました。そう。驚きました。
本屋さんで見かけたときには「えぇ? ルポルタージュなのかなぁ?」と思い、
読み始めて「コメディーかぁ。」と、一種「純文学崇拝者」が常識的に見せる反応を僕もとりました。が、しかし。読み終わってビックリしました。何に驚いたかと言うと、読み終わって感じるモチーフの一番大きなところが、ストレートに読める「美容整形はどうなのか」ではなくて、人間の幸せとは何か。文学の王道を行くテーマに挑戦した小説に思えた事です。喜劇でこのモチーフを扱う小説は初めてでした。ルポルタージュを期待させる外見に、喜劇な物語。そして、いざ読み終わってみると、爽快感が得られ、前向きに生きていく勇気が沸きました。こんな小説の出会いに驚くとともに、嬉しく感じました。
感想を逸脱してしまいますが、著者の独擅場と僕には思える手法について考えてみたいと思います。簡単には真似の出来ない書き方だと思います。
作曲に喩えれば、短調で曲を書くと、比較的「雰囲気のある」曲が書きやすいと思います。素人が真面目に歌を書くと、往々にしてマイナーになってしまうのはこのためのような気がします。Cメジャーで書くと、どうしても「聴いたことのあるような曲」になってしまう。だから、長調で、個性的で味のある曲を書くのは難しいし、もし、そのような曲に出会ったら、その曲を作曲した人は才能のある人だと思う。サザンの曲って、そう考えると、スゴイ才能の惜しみない出血大サービスのオン・パレードのような気もしてきました。ジャマイカン・レゲエの偉大さも考えなくてはイケナイような気分にもなりました。が、脱線はこのへんまでにして、本書に戻ります。
この小説は、くだんのような著者の配慮により、大きなテーマを扱っているにもかかわらず読みやすい。ビックリして嬉しかった。これが、僕のストレートな感想です。
こんな小説、他の作家の作品からは期待できません。でも著者はとうの昔の文豪ではありません。今、僕たちと同じ世界に生きており、なお元気に新作を書いている。もっと長編が読みたい。(未読の長編「受難」が横に置いてあるのだが……それは内緒にしておいて)著者には健康にお気を付けいただいて、末永く活躍していただきたいものです。
2001年 5月 7~11日

 

文庫化第一弾(2002年)の感想

文庫が発売されたので買いました。解説は鹿島茂(仏文学者。1949~)。僕が昨年上に書こうとして書いていないフリをして、表現の未熟さが露呈することを避けた「なぜ外面の美を正しく見たい」と思ったのか、についてを解説されています。上で僕は「本書か、同じ著者のエッセイ「ブスのくせに!」を読んでみて」と言っているわけですが、文庫が出版された今は、この解説を読んでみるのが良いかも知れないと思う次第です。
ウェブ上のファンサイト姫野嘉兵衛/姫野カオルコ ファンサイトの読者感想を拝読すると、最終章「荒野の美女」の解釈が人によって大きく違っています。具体的には、整形後の甲斐子を「哀れむべき煩悩の奴隷」と読む人と「自分の意志を貫いた幸中の人」と読む人に分かれるようです。解説では、この結末が美容整形を扱った小説の中でもこの小説が傑出している由縁である事を指摘している点も読み逃せません。
改めて文庫を手にした今、好きな小説ランキングは同著者の「終業式」(角川文庫2004/ 2/25)
終業式 (角川文庫)

終業式 (角川文庫)

 
が一番に変わりはないのですが、人に勧めるとしたら、この小説が一番である事を再認識しました。

 

僕の手術体験

ところで、上に書いたように、この小説は(僕が読んだところでは)美容整形の是非を論じているのでは無いのですが、手術について一言。この場を借りて僕の感想を……。小学校五年、高校二年と三年の三回。持病だったガングリオンの摘出手術経験から。
あまり耳慣れない病名かもしれませんが、いわゆる「関節に水が溜まった」という症状のこの病気は、探せばクラスに一人や二人は「ガングリオン」を飼っている人が見つかるほどポピュラーな病気です。命に別状は無いし、関節にこぶが出来て邪魔な程度。多くの人は、邪魔ががまんできなくなった時に、病院に行き、注射で溜まった液体を抜く治療で済ますようです。
でも、僕は、右手首に出来たこいつの為に、言い訳付きの人生(「これがあるからテニスの試合に負けた」とか「これのおかげで、楽器の練習が進まないや。」など)を歩むのが嫌になり、手首をかばって別の場所を怪我したりしたので、手術で摘出したのです。
手術は、肘の下をゴム管で縛って止血し、局部麻酔を注射して行う簡単なもの。時間も十五分程度です。手術中のお医者さんと会話も出来ます。
「これって、簡単な手術なんですよね。」
「そんなことないぞ。血管や、神経を避けながら切り取るんだから、神経使うぞ。」
最近になってインターネットで「手術日記」を公開している人のページを読むと、実際に神経に支障を来し「医療ミス」として係争されるケースもあるらしいです。
僕は、幸いそのようなこともなく(術後、学校を休んで暇だったのでピアノをガンガン弾いたら傷口が開いて少々見苦しいけれど(笑)その後、言い訳の人生を歩むこともなく、学生時代はロック・バンドに熱中してキーボードを思う存分弾いていました。
でも、術前60kg近くあった握力は40kg以下になったし、季節の変わり目は手術跡が「痛い」と言うわけでは無いのですけれども「気になる」ようになり、持っていたものを気付かぬうちにポロリと落としてしまうことがあります。人に右手、右手首を触られることを極端に嫌うクセが抜けません。随分以前にお付き合いしていた恋人は、愛情表現に僕の手首を握るクセがあって「こうすると安心するのよ。」と言っていたのですが、僕の手首を握る彼女の腕を反射的に振り解き、気まずく……と言うよりは、険悪になった事もありました(^-^;A このあたりからフィクションが混じります(笑)
比較的頑丈な手首の皮膚を切ってさえ、こうなのです。ましてや美容整形では(たとえば鼻を高くする整形手術では)メスを内側から入れるんですよね。
「面倒なお化粧を固定させるだけ」みたいな、軽い気持ちで手術を受けるのは「違うぞ!」と、言いたくなります。
僕の類推ですが、美容整形で鼻を高くした人は、恋人とキスをする時に、鼻が気になるようになるのではないでしょうか。
さらに類推ですが、豊胸手術をした人は、恋人に愛撫されることを嫌うようになるような気がします。
男のワタクシからは「お願いだから、やめてください。」と、将来の恋人のつぶやきを先回りして、言いたいです。
以上、手術についての僕の感想でした。

 

幸せの形を描いた小説

ちなみに、僕は(解説を読んだ後に、このように書くのは卑怯のような気もしますが(^_^;)最終章の荒野の美女「甲斐子」は、大曾根医師の感慨の通り、幸せの中にあると思います。このような描写=多様な幸せの形が、この小説を著者の作品の中でも、特に傑出した作品にしているように僕は思うのです。皆さんはいかがでしょうか。

2002年9月28日
No.290

光文社文庫を読みました。

光文社文庫に収録されたので買いました。
近年も相変わらず「美容整形」を取材したノンフィクション作品が多いようです。でも、「この小説は視点が違うよな。」と思いました。
途中まで読み返したところで、サブ・ブログに感想を書いています。
上記ブログに記した際には「モテ」と「美女」は違う。と言うことが、他とは異なる視点かな、と思いました。

「整形美女」の要素

再読しました。そして、本日改めて単行本、最初の文庫を購入して読んだ際の自分の感想を読み返しました。ここで思うのは、先ず本書は複数の要素がある事です。
  1. モテと美女は違う
  2. 美容整形は、健康保険に依らない手術である。
  3. 美容整形の背徳感とはなにか。
  4. 人が幸せになりたいと願う多様性。
簡単にまとめてみると、上記四点が、この小説で描かれている内容だと思います。
いずれも、著者の持ち味である「既成概念によらず、ニュートラルなところから出発して、深く考えてみる。」と言う視点で描かれている小説だと思います。

美容整形は健康保険に依らない手術である

特に、美容整形が、健康保険に依らない手術である、と言う視点は、今でも見落とされがちな、しかしながら、自分が美容整形を考えたときに留意せねばならぬポイントです。
自分の顔にメスを入れ、何かを削り、または注入し、縫合して傷が癒えるのを待つのが手術です。ですから、先ずは安全性、と言うか医者の手腕に留意すべきです。
また、この手術は、健康保険に依りませんから、施術の内容と技術、価格、アフターケアについて、医院との交渉全てを自分で引き受ける必要があります。
歯医者さんでは、同じ歯を月に二度治療すると「重複医療」として、健康保険が治療費(の保険負担7割)の支払いを渋る、と聴いたことがあります。
僕は、ひどい風邪をひいて、病院に行き、診察、治療を受ける際に、今までは健康保険の存在を(治療費の七割を払ってくれていると言うこと以外)に気にとめることがありませんでした。でも、この小説を読んだ後は、治療の内容や、治療費、治療後のケアなど、健康保険が病院や医者に対して、いろいろ注文を付けていることに思い当たりました。ありがたいことです。
しかし、美容整形は全て自己負担。施術の内容は適切か、不要な施術までしていないか、価格は妥当か、術後に問題が発生した場合病院が責任を持って対応するか、人に頼らず、患者である自分が病院や医師と交渉に当たらねばなりませぬ。気が重たいですね。

「だれかの美容整形」ではなく「自分が美容整形をうけるとどうなるのか?」と言う視点で描かれています。

なぜ、美容整形は生来の顔を変えることの是非について語られる事が多いのか。
なぜ、手術の安全性や術後のケアや、価格や医師の技量があまり語られないのか。
と考えると、結局のところ、語っている人が、社会問題(他人事)として語っているのではないか、と思い当たります。
少なくとも僕は、自分が美容整形を受けることを前提として語っている人の話しを聞いたことがありません。
ですから、美容整形を語ると「手術」としての側面があまり語られず、
術後に思い描いたとおりの顔になることを前提としているかのように語られるのではないかと思いました。
 
ここまで、考えると、この小説が、他と異なる点が理解出来ました。
この小説は、徹頭徹尾、施術される若い女性の立場に立って描かれています
人の美容整形ではなく、自分の美容整形について描いています。
「だれかが美容整形をするとどうなるのか」
ではなく、
「自分が美容整形の扉を叩くとどうなるか。」
 
僕自身も「もう少し鼻が、」などと考えることがあります。
でも、この小説を読むと、少し考えが変わりました。
そして、少し生きていくのが楽になったように思います。
2015年 8月10日