No. 530 リアル・シンデレラ/姫野カオルコ著 を読みました。
童話「シンデレラ」について調べていた編集プロダクションのライターが、「シンデレラは幸せになったのか」と疑問を持つことに端を発するリアリズム小説です。
この疑問に意気投合したプロダクションの社長から、知り合いの女性「倉島泉」を紹介され、取材を始めます。
「幸せになったシンデレラ」とは、本当はこのような人の事を言うのではないか。
物語は、倉島泉の半生を描いています。
僕は、諏訪の手前の茅野市には、仕事で頻繁に出張する機会があったのですが、隣の諏訪湖には降りたことがありません。最近趣味に加えた温泉は、「温泉旅行に行くならば、ひなびたところが良いな。」と言う理由から、諏訪は「それほどひなびていないよな。」と思っていたからです。と、言うのも、このあたりは、米が多く穫れたことから人口が多かった事を昔耳にした記憶があります。今、調べてみたところ、旧国別で信濃は幕末に5位をマークしていました。明治の文明開化以降は、多数の精密機器メーカーが拠点を置き、僕が頻繁に出張したお客さん=カメラメーカーも、そう言うわけで茅野に開発拠点を構えていました。その他、子どもの頃は、親や塾の先生に連れられて、茅野からもう少し山に登った立科町の女神湖で夏を過ごした淡い思い出もあります。パーキングエリアから眺めた諏訪湖は、そう言うわけで、それまでの知識から「やっぱり、家が多いなぁ。人口が多いんだろうなぁ。」と、納得したものでした。で、信玄が京の公家から迎えた正妻が温泉に馴染まぬのと対照的に、側室に迎えた諏訪氏の娘とは一緒に温泉を楽しむエピソードが印象的です。
こんな町の料理屋兼温泉宿(現代風に言えばオーベルジュ)の<たから>に昭和二十五年に生まれた女の子が倉島泉(くらしません)=本書の主人公です。
さて、倉島泉は、シンデレラになれたのでしょうか。
読み終えた直後にぼくは、考えました。
「倉島泉は幸せだったのか。」「幸せになったシンデレラと言って良いのか。」と考えました。
先ずは、このように、しみじみと考えるところが、本書の味わいだと思います。
以下は、徐々に内容に踏み込みます。
何故、読後にしみじみと考えたか、と言うと、僕が今まで漠然と考えていた幸せ=生活に困らない収入があり、結婚をして、子どもを設け、とりたてて裕福でなくても良いから、子どもが健康に育っている状態など=を基準にすると、倉島泉が幸せを得たとは考えられなかったからです。
倉島泉が幸せだったとすれば、彼女の幸せは、僕が今まで考えていたタイプの幸せとは、異なるタイプの幸せであるはずです。
それは、どのような幸せなのか。
これに結論を出す前に、僕は「彼女は幸せだったはずだ。」と前提を置いています。
それは、著者の作品を読破しているヘビーな姫野ファンだから、と言うのもあるのですが、著者の作品を好む理由=よく知らない人を、思いこみで哀れんだり、非難したりするのは迷惑だ。と言う僕の性質に馴染む理由からです。
例えば職場の昼休み、節電のために照明が落とされた事務所で、食後のおじさん二人が世間話をしていたと思ってください。
「今の若者は、車に興味が無いんだってさ。」「俺たちの時には、学生時代にアルバイトをして、食費を削っても車を手に入れたもんだよな。」「俺は、割りのいいバイトにありつけなかったから、就職してから、せっせと頭金を貯めて、ローンで4WDのクーペを買ったよ。」「今は不景気だから、若者は車を買う夢が見られないのかね。」「そうだな。俺たちは、なんだかんだ言っても、バブル景気を経験しているからな。」「今の若者はそう言う意味ではかわいそうだよな。」
昼休みに聞こえてきそうな例を考えました。
車に興味のない若者は、かわいそうか。
景気さえ良ければ、今の若者でも車に興味を持つのか。
あえて、「それは違うよ。」と言うほどの事でも無いと思いますが、僕はこのように、自分と価値観が違う人たちに対して、思いこみで哀れみを持つ人に違和感を覚えます。
ですから、本書を読み終わった瞬間に、僕が漠然と考えていたタイプの幸せをつかんでいないと言う理由で、倉島泉を不幸だった。かわいそうだった。と結論づけるワケにはいかなかったのです。
また、著者のエッセイで印象深い、良寛(1758~1831:曹洞宗の僧侶)と貞心尼の交流の考察に、類希な説得力を感じたからです。出所:「ほんとに「いい」と思ってる?」(2002/9/25角川文庫)
第一章 ブランドの烙印/ハーブティーが好きな人が「いいな」と思うような関係)
恋愛を含めて、幸福感と言うものは、僕が知り得ているものだけでは無い。
それでは、倉島泉の幸福とは、どのようなものだったのだろうか。
それを考えました。
以下は、本書の核心部分について、僕の答えを述べます。
「これだ。」と思いました。
倉島泉の幸福は、イマヌエル・カントの言う、自由意志による行動がもたらす幸福感なのではないでしょうか。
お金で買える幸福感は、欲望を満たすものであり、満たされた欲望は、自分の自由意志で得たものでは無く、逆に欲望の奴隷として行動した結果です。
自分の家族を得て、子どもが順調に育つのを見守ることからも幸福感が得られますが、その幸福感は、どんな生物にも共通の本能的な欲望に従っているものだと思います。
一方、倉島泉が得た幸せは、自分で願った行動規範に従った結果(物語では貂に願った三つの願いから)得られる幸福感であり、これは、つまり、カントの言う、自由意志による行動がもたらす幸福感だと思います。
それは、人間だけが持つ理性による幸福感であり、
好景気の折りに、金で買ったものから得られる幸福や、
不景気でも家族と一緒にいられる幸福とは別の次元のものです。
現在の日本は、残念ながら不景気です。
そして、周囲の国では、戦争が起こりそうな不安があります。
でも、それらとは全く無関係に、僕たちは、幸せになる事が出来る。
リアル・シンデレラ=倉島泉の一生から、僕はその真実を学んだように思いました。
ところで、僕は、努力しても倉島泉のように生きることは出来そうもありません。
それほど、彼女は善人を通り越して聖人のように見えるほどですが、
彼女が得た幸福のように、景気が良くても、悪くても、健康でいても、病んでいても、
幸せになる事は出来るのだ。
この小説から学んだ事は、僕にも幸福感をもたらしたように思います。
幸せは、自分の中にありました。
以上は、オンライン書店hontoネットストアに投稿した書評を元に書き直したものです。
2010年 5月30日
No.530
本気で「リアリズム小説」だと思っていました。リアリズム小説として、ラストの倉島泉の行動をどう解釈するか昨年まで真面目に考えていました。しかし、なかなか折り合いがつく結論を出せず、悩んでいました。
ウェブで記すときの心得として、賢しらな文面で、わかったように、本の感想を広く公開しています。しかしながら、実際のところは理解不足だな、よくわからないな。と言うこともあります。疑問に思ったこと、わからないことなどは、公開の場で聴かず、閉じられた場でこっそり聴くことにしています。
ディープな姫野カオルコファンの方々のご意見を拝聴し、僕は、ようやく、本作を「ファンタジーである」と納得しました。みなさん、親切に本作の解釈をお話しいただきました。最近つくづく思うのですが、僕は友人に恵まれています。ありがたや。
ただし、冒頭で「リアリズム小説です。」と書いてしまった、「楊耽」の名でhontoに投稿した書評や、「楊」の名でamazonに投稿したレビューは修正しません。hotoでは、6人中6人の「役に立った」票が、amazonでは、18人中16人の「参考になった」票が投票されていて、今から修正すると、投票された方を欺くことになる、と遠慮するものです。ちなみに、hontoで検索すると、文庫化された本の元本(単行本)は表示されません。文庫および電子書籍が検索されます。文庫および電子書籍向けの読者書評には、「リアリズム小説です。」だけ削除した僕のブクログ向け感想文が表示されます。
梅雨明けの猛暑日、扇風機にあたりながら、文庫版「リアル・シンデレラ」をぱらぱら読み返しています。
文庫p368からの「15 小口耕介とぽちゃぽちゃした女」:貂に似たトニー谷(ヴォードヴィリアン:1917/10 ~ 1987/ 7 東京)口調の客?と、泉とのお話は、定期的に読み返したい箇所です。
2015年 7月26日