No. 536 しろばんば/井上靖を読みました。
平成の現在、伊豆下田急行の黒船列車に乗ると、その車内に沿革を解説して曰く「開通当時はまだ陸の孤島だった南伊豆へ、第二の黒船として伊豆下田急行がやってきました。」というような記述を目にします。伊豆下田急行の開通は、昭和も戦後の1961年です。
物語は、おそらく大正元年(1912年)からの六年間で、小説の中で少年たちが「ずいどう」と呼ぶ旧天城トンネルがようやく開通(1904年)してから、まだ十年経っていない頃です。
洪作たちが馬飛ばしを見に行くために歩いた山道を、僕も歩いたことがあります。中学校を卒業する間際の早春。クラスメイト六人、中伊豆と湯ヶ島の宿を予約した二泊三日の旅行でした。
初めての子どもだけの泊まりがけの旅行で、うかつにも、なんら観光スポットをチェックしていなかった僕たちは、中伊豆の宿を出た朝に、
「では、次の宿がある湯ヶ島まで歩いて行ってみよう。」
と、洪作たちが歩いたのと同じ山の中を歩いたのでした。
早春の筏場は、新緑に萌え、今は「日本一の棚田」と看板が立っている広い渓谷の山葵の棚田からちょろちょろと流れる清流は手ですくって飲めそうでした。
つまり、ど田舎と言うと、暗いじめじめした印象があったのですが、明るく緑豊かな山と渓谷が、この小説の舞台です。
読み終えて思ったのは
「少年の時に体験すべき事は、山深い村に住んでいても全て体験できるのだ。」
でした。
それは、例えば、洪作が級友と喧嘩をして怪我をさせてしまった時のエピソードです。
大人としては、「大事なくて良かったな。」「ちゃんと反省してくれるかな。」と気がかりな場面ですが、物語の中では複数の大人が、それぞれに全く違った反応を示します。
洪作と同居している、おぬいばあさんは、以前口うるさい洪作の母親への当てつけで「謝っちゃれ。なんでも謝っておけば収まるから。」と洪作に言っていたのを棚に上げ、洪作を家の中にかくまい「誰にも手出しをさせないぞ。」とがんばります。
やってきた祖父は頭ごなしに「ばかもん」と怒鳴りつけ、怪我をさせた相手の家へ謝りに、洪作を引き連れていこうとします。
近所に住む耕作の親友=幸夫の母親が駆けつけ、祖父の肩を持ち「謝らせておくのが無難じゃ。」と、おぬいばあさんをなだめます。
母方の祖母は「あとでおはぎでも甘酒でも作ってやるから、何を言われても悪うございましたと謝ってきなさい。」と言う。
行った先の喧嘩相手の父親は、なんと「喧嘩は子供の仕事だ。いちいち謝っていたら、仕事が手につかないわい。」と、謝罪不要の太っ腹。
学校に行くと、先生には長い説教を食らうのかと思いきや「喧嘩はイカン。今度喧嘩をしたら、もう学校にはおいておけない。」と短い通達のみで授業を始めてしまう。
洪作自身は「大変なことをしてしまった。」としきりに反省し、つまり、健全な少年期の経験となり、以後怪我をさせるような喧嘩はしないようです。
僕の子供時代を思い起こしても「あぁ、あのとき取り返しのつかないことにならなくて良かった。」と言う危険な思い出があります。誰にでも似たような経験があるのでは無いでしょうか。(逆に、「ワタシは子供の頃にそんな悪いことは一切しなかったよ。」と言う大人は信用できないですよね?)
でも、僕には洪作のように、このような貴重な経験に加えて、「大人にはいろんな考え方があるんだなぁ。」と言うような事まで一緒に経験することは出来ませんでした。
洪作は、なんと豊かな経験をしたのだろうか。と(人の経験を羨む事に意味があるのかどうかは別として)羨ましい限りでした。
必ずしも大人の誰もが模範的なワケではなく、それぞれ癖や個性があり、その中で生きていくことが大人になることなのだ。と、僕の場合は成人してだいぶたったころにぼんやり習得したように思いますが、耕作の場合には、こんな複雑な人間関係を、山深いど田舎で、小学生の時に経験したわけです。
その他、老人をいたわる心が芽生える瞬間や、自主的に学習に取り組み始める瞬間、女性を意識する思春期の萌芽、級友と将来つくべき職業を初めて語る、など、など、など、思いつける限りの全ての「小学生の時に経験すべき事」を経験し、成長していく洪作の物語でした。
以上は、hontoネットストアに投稿した書評です。
2010年 1月30日
No. 536