受動態

Daniel Yangの読書日記

No. 594 陸軍大将 山下奉文の決断 国民的英雄から戦犯刑死まで揺らぐことなき統率力/ 太田尚樹 著 を読みました。

2005/2講談社「死は易きことなり」
死は易きことなり―陸軍大将山下奉文の決断

死は易きことなり―陸軍大将山下奉文の決断

 
の改題文庫化。
日本陸軍大将山下奉文[やましたともゆき]1885~1946の伝記。
主にシンガポール華僑粛清事件(1947シンガポール、マレーシア)での山下奉文の関わり方に焦点を当て、資料を読み解いています。また、現地の華僑、および加害者側である日本軍関係者に取材しています。

 

第一章 嵐の前
取材に訪れたシンガポール市街中心部、ラッフルズ広場の様子から筆を起こしています。
生い立ちを語った後、東條英機(1884 ~ 1948)と撮ったスナップ写真から、本題に入ります。東條がスイスに駐在武官として単身赴任した1919年大正8年。33歳)ころです。
第一章は、関東大震災(1923/9/1。38歳)まで。戒厳令が布かれた東京で治安部隊を指揮していた山下が、流言飛語を鵜呑みにして虐殺まで始めてしまう民衆を目の当たりにするまでです。著者は「流言ほど恐ろしいものはないね。」と、山下の言葉を紹介した上で、その教訓を生かさず、本書の主題であるシンガポール占領後の華僑虐殺を引き起こした点を指摘しています。
第二章 ウィーンの石畳を踏んで
1927年2月。山下42歳。昭和への改元まもなくオーストリア国在帝国大使館付き武官として赴任。
この章では主に山下の交友関係、家族関係が紹介されています。ウィーン大学での著名な日本人音楽家たちとの交友、クーデンホーフ・光子(Mitsuko Maria Thekla Coudenhove-Kalergi 1874(東京) ~ 1941(Mödling))と、光子に紹介された家政婦?キティーとの関係が紹介されています。人生で私生活が最も充実していた時期。それは単身赴任のオーストリアでした。
第三章 山下と東条
本章では東條との不仲から筆を起こし、軍の中での山下の人との接し方を紹介しています。
豪放磊落な振る舞い。プライベートな付き合いでは問題無いですが、一緒に仕事をする人によっては、理論や根拠、計画を一言で一蹴する迷惑な人、関わり合いになりたくない人なのかな。と僕は読んでいて思いました。
2・26事件直前に「岡田なんかブチ斬るんだ!」と海軍出身の岡田啓介首相暗殺を焚き付けてしまった山下ですが(次章で新井勲著「日本を震撼させた四日間」文芸春秋新社, 1949
日本を震撼させた四日間 (文春文庫 (408‐1))

日本を震撼させた四日間 (文春文庫 (408‐1))

 
での記述を紹介しています。)、本人の意図は別のところにありました。
類似のエピソードを紹介して、読者の理解を促しています。連隊長時代、将校が「官舎がボロいので建て直して欲しい。」と言い寄ってきた時。「君に勇気があるなら燃やしてしまえ。」そうすれば、俺が建て直しを請け負ってやると、あしらった、と。剛胆崩落と言うのは、結局そのばしのぎで「話せばわかる」と言う人も煙に巻く達人という側面があると思いました。
第四章 痛恨の二・二六事件
帰国して陸軍省勤務だった大佐から少将時代。五・一五事件(1932/5/15)から二・二六事件(1936/2/26)の山下自身ではなく、事件の概要をおさらいしています。
五・一五事件を含む前後の事件処理の甘さ
やった事はやったこととして、彼らの国を思う心情は……(軍法会議
という甘さが招いた、と指摘しています。
第五章 雪の朝
二・二六事件発生当日から、29日に将校達が陸軍大臣官邸に集まるまで。
将校達が集まった陸軍大臣官邸で将校達を対応したのは山下ただ一人。反乱軍に同情的な対応と、棺桶を積み上げ「ここで黙って死んでくれ」と官僚的態度をとる山下の相反する言動を読み解いています。
山下は、主に前章で解説した雰囲気、クーデター側に同情的な雰囲気に沿っていたと理解しました。
第六章 事件の後
二・二六事件処理で山下が天皇の叱責を受け、京城に左遷される経緯を記しています。
天皇に申し訳ない気持ちを持って赴任した様子が描かれていますが、後にシンガポール華僑粛清事件を起こし、再び天皇の不興を買います。すると、申し訳ない気持ちは叱られた事に対する単純な反応であって、何が意向に反したのかを考えていなかった、と想像しました。次章でも「まだ赦されない」と嘆く描写がありますが、なぜ不興を買ったのかを理解していないのですから、赦す方も赦すことができないというわけです。
第七章 大陸に広がった野火
盧溝橋事件(1937)から日中戦争に拡大し、山下は中国に出動した後、第四師団長に転任する1939年まで。
戦闘中、山下から配下の将兵達への命令「焼くな」「奪うな」「犯すな」などが紹介されています。軍の指揮などでは戦後でも好ましいと思える指揮官であったことが記されています。一方租界の閉鎖など、国の方針と異なる作戦を指示する様子も描かれています。この一冊を読み終えての僕の感想は「山下は政治や教育を口にせず、軍の仕事に専念していれば良い仕事をしたのではないか。」です。この感想は、本章のような記述に導かれているものだと気がつきました。
第八章 迫りくる嵐
1940年、天皇や東條の意に反して山下へ内地への転任命令が下るところから、内地に転任されてまもなく日独伊三国同盟締結をうけて、長期のヨーロッパ視察へ向かう山下。独ソ開戦近しと、帰国命令が出るまで。
第九章 満州防衛司令官
1941年。満州防衛司令官を命じられ再び外地へ赴任するまで。ラストエンペラー愛新覚羅溥儀(1906 ~ 1967)とのやりとりや、当時の世情解説としてゾル(Richard Sorge : 独1895~1944)事件の顛末を紹介しています。
第十章 開戦前夜
開戦が決まり、マレー・シンガポール攻略作戦を指揮する軍司令官の内命が下り、国内で家族との最後の時間を過ごすまで。
山本五十六(1884~1943 連合艦隊司令長官との開戦直前のやりとりを面白く思いました。
なお、この章を読んで、僕は初めて気がつきました。それまで僕は、第二次世界大戦の日本は中国と、アメリカと戦争をしていたのだと認識していたのですが、当時は、アメリカを主な敵とは考えておらず、油田のある英国植民地のマレーシア、シンガポール占領が当初の作戦の主眼だと言うことです。
第十一章 さいは投げられた
開戦前、マレー半島に向かう山下。
第十二章 ハワイ攻撃より早く始まったマレー半島上陸
開戦。宣戦布告について吟味しています。
第十三章 マレー半島上陸
開戦当初。山下が指揮するマレー半島への上陸作戦、南下しつつのイギリスとの緒戦を解説したほか、リー・クアン・ユー(李光輝1923~2015 シンガポール首相)自叙伝から引いて、士気の低いイギリスの駐屯軍と、自国を守る意識のある華僑との対比を紹介しています。山下を含む日本軍のプロパガンダ~アジア人を英国の支配から解放させてあげたい親切心が全くの見当違いであることを示しています。
第十四章 熱帯雨林を駆け抜けて
シンガポールに向かって快進撃を続ける日本軍の様子と、本書のために取材で訪れて、当時を見聞きした現地の華僑へのインタビューを記しています。また、従軍する報道班、宣伝班の様子が語られます。井伏鱒二のエピソードは、詳しく後の章で語られます。本章では、禁止されている夜間外出で夜な夜な酒を飲みに行く海音寺五郎を紹介しています。
生来の自由人を、聖戦参加者基準で低評価する山下。「怠慢」と不満を持ち「教育の充実が必要。」と嘆く。
第十五章 密林の中の日本兵たち
銀輪(自転車)部隊の様子を記しています。他には、食料の現地調達や、宿泊地の確保の様子など。
第一六章 大事件を前にして
マレーシア南端ジョホール州での戦闘の様子を描いています。イギリス軍は

マレー作戦 - Wikipedia

によると、混合部隊。おおよそイギリス兵:インド兵:オーストラリア兵:その他=1:2:1:1。本書ではここに鉄道や橋梁の破壊などのゲリラ的工作で華僑義勇軍が加わっている、と日本軍が認識していることを指摘しています。
第一七章 凄惨きわめたシンガポール
マレー作戦の最後、シンガポール上陸から占領までを描いています。章題の「凄惨きわめた」は、マレー作戦全体の日本軍の戦死者の約半数が、シンガポールでの戦闘によることを表現しています。降伏交渉に来たマレー軍司令官パーシヴァル中将(Arthur Ernest Percival、1887 ~ 1966)に「無条件降伏。イエスかノーか」と迫る山下の高圧的な態度についても吟味しています。
第一八章 提灯行列の陰で
日本国内が提灯行列でシンガポール陥落を祝う様子と共に、陥落後のシンガポールでの様子を描いています。それは、華僑粛正の下命。疑問が多いこの粛正の実行を命じた部下が2・26事件で演じた役割と絡めて推察しているところが読みどころです。機転を利かせて命拾いをしたリー・クアン・ユーの行動も紹介しています。
第一九章 華僑粛正
本書の焦点である「華僑粛清事件」の実態と、憂慮する本国の陸軍関係者の様子を吟味しています。
第二十章 嵐の後
研究結果の紹介や、現地の方々の取材も含め、主に、シンガポール華僑粛正事件の後年の評価を紹介しています。「赦そう、だが忘れまい。」の精神を解説しているのもこの章です。
第二十一章 焦燥の日々
山下が次の任地に出発するまで。
第二十二章 終焉の地
転任後の満州での様子と、フィリピンで終戦を迎え、裁判の結果死刑に処せられるまで。
あとがき
本書の執筆に至る経緯などを記しています。学生時代のベトナム戦争が影響している旨など。

優れたノンフィクション作品

本書は本質的には、丁寧な取材に基づくノンフィクション作品です。
理解しづらい華僑粛正事件を取り上げて、事件に至る経緯や実態を、被害者、加害者双方に取材し、資料の整合性を検証しながら、時間の経緯に沿って物語として示しています。
太平洋戦争と言えば、真珠湾攻撃程度の戦闘しか知らなかった僕にとっても、
また山下奉文が「マレーの虎」と讃えられた当時の世相を知っている世代にとっても、わかりやすいルポルタージュになっていると思います。
裁判が行われ、判決の結果死刑判決も出され、執行されているマレーシア華僑粛正事件。
事件を起こした軍の最高責任者で粛正の指示を出した山下奉文本人は裁判当時には、別件で死刑判決を受け、執行済み。
現在は、首謀者は辻正信(1902-1962?)。彼の発案を、押し切られた形で山下奉文が軍に下命したと認識されているようです。実際のところはどうだったのか。

 

本書を読んで、僕は「なるほど、そう言う感じかも知れぬ。」とリアリティーを感じました。
さすがにアメリカの大学で学び、ジャーナリストとしての経験を積んだ著者ならではの作品です。
特に、第二十章「嵐の後」が現代のジャーナリストも参考にするべき貴重な示唆を与えていると感じました。
直接被害者にインタビューした場合でも、相手がインタビュアーの意図を汲んでお話しするケースがあり、
通訳を介したときにも注意点があることを指摘した内容は慧眼だと思います。

 

歴史の勉強ができます。

また、この一冊の読書で、僕は歴史のお勉強もできました。
例えば、日本は第二次世界大戦中に、近隣諸国に迷惑を掛けた。と言われている一方、迷惑を被った東南アジアの方々は「許そう。だが忘れまい。」の精神で友情を約束し、現在は良好な関係が築かれています。
その迷惑の具体例が、本書で取り上げているような国際法違反の事件を起こしたことであると理解出来ました。
先立つ1937年の南京事件は、現在では政治利用が活発で、何が実際の事件なのかさっぱり解りません。本書の「シンガポール華僑粛清事件」は、執拗な政治利用がなされていない為、ある程度「こんな事件だったのか。」と理解しても良いかな。と信用できると思います。
近隣諸国の寛容で平和的な日本人への態度に対し、日本人である自分がこれらの事件を存じ上げなかった事に冷や汗を掻いた次第です。
また、二・二六事件(1936東京)への山下奉文の関わり方も深く掘り下げており、事件の概要もおさらいする事ができました。

 

人生訓として

さらには、むずかしい判断を迫られたときの心理についても、今後自分が生きていく上での参考になったように思います。
つまり、本書は、単なるノンフィクション作品、歴史解説に留まらず、人が何かを決断するときに過ちを犯さないようにするべき教訓の本としても機能しているように思います。
フィリピンで敗戦を迎えた山下は安易に自決せず、終戦となったからには、部下である兵士らを無事に帰国させる事が使命と考え、指揮を執り続けました。日本から遠く離れた島に取り残された兵隊さん達には、命の恩人となったわけです。
沖縄戦で、司令が自決した後、のこされた軍人、住民が降伏する事もできず、いたずらに戦死者を増やした経緯を考えると、山下の判断は的確で立派に感じられます。
その一方で、粛正事件を指示した山下。この判断の誤りにはどのような心理的な側面があったのか。どのような背景があったのか。
読書のあとに、深く考えさせられました。

 

反面教師として学んだこと

全編を読んで、山下奉文に対する感想は「自分の仕事に集中できなかった人」です。
山下は「教育にも一家言ある人」と評価されているようですが、第十四章「熱帯雨林を駆け抜けて」での指摘-山下が述べる教育は、結局のところ自分の仕事に協力的でない、他の職業の人への不満のように感じられます。徴用で山下の第25軍に送られた作家、詩人、画家、ジャーナリストに対し、与えた訓示が「自己の腕を国家のために振るうと言うがごとき、意気のあるもの一名もなし。」=不満です。
軍人ならば「戦争は俺たちに任せろ。戦争のことは気にせず、みんな自分の仕事に励んでくれ。」と言っても良いと思います。しかしながら、山下は自分に任せろとは言わず、他の職業の人が協力的で無いことを不満として「教育が必要」と述べていたようです。
一方、海軍連合艦隊司令長官山本五十六の「運が良いものを使う」と言うのは、失敗があった時に、自分のできる事を探して合理的に解決し、成功を手中に収める人と言うことだと思います。
他者に不満を抱えながら仕事をしている人は、何かうまくいかなかった時に自分にできる事を探さず、言い訳として他者への不満を述べ、納得しておしまいにする傾向があるように思います。問題を合理的に解決できません。「運が悪かった。」と嘆いておしまいです。
ここから僕が得た教訓は、仕事や家庭に不満があっても、その不満の内容は吟味せず、取り組んでいる課題に集中すべし。です。愚痴を述べるよりは、自分が今できることを探せ。と自分に言い聞かせることにします。

 

また、政治にも不向きだったと思います。
政治は(過程での努力ではなく)結果に責任を持つことが特徴。と何かで聴いた覚えがあります。
二・二六事件では、自ら手を染めた者ではありませんが、結局多くの天皇の臣が殺害されました。事件の首謀者達に同情的な態度は、結果に対して無責任であり政治家には不向きだと思います。
第十八章「提灯行列の陰で」ではシンガポールを陥落させた今、戦争を拡大させるのではなく、後始末に進むべきだと周囲に述べている風景を紹介しています。これも言うことは尤もなことですが、具体的に戦争終結に向けて行動をしていません。
ここから僕が学んだことは、政治家を選ぶ際には「何を言っているか」ではなく「何をしたのか」で選ぶべきと言うことです。

 

世間の評価

ただし、立ち止まって考えると、このような大言壮語の人が英雄視されるケースというのは、現代でも普通に見られるように思います。
単に大言壮語と言うのではなく、巧妙なトリックを使う人が多いことに最近気がつきました。平素から部下、配下に「使えないやつ」をキープしておく人。何か不具合があった時に、上に報告するためのスケープゴートとして使う人です。本人は「叱咤、激励していたのですが。」と上に報告します。「お前はよくやった。」と認めてもらえばトリックは成功です。部下をおしなべて無能呼ばわりすると、簡単にトリックがばれます。そこで、特定の一部をターゲットにして「不真面目」「技量不足」と平素から周囲に印象づけておくのがコツのようです。実務で成果を上げずに出世する人の中に、このトリックを無意識に平然と用いている人は普通に見られるように思います。
本書の例で言えば、山下の近衛師団の扱い方が該当すると思います。近衛師団の一個連隊がイギリス軍の重油戦術によって全滅したいきさつです。
師団長の疲れ切った状態を理由に、一旦上陸作戦から外した山下に対し、面目を理由に作戦への参加を申し出た近衛師団
ところが、準備が間に合わず、遅れを認めさせて欲しい旨申し出た。
遅れを認めず、渡河作戦に送り出したのが全滅の一因になっています。
いずれも近衛師団自身に原因を求めることも、またそのように周囲に印象づけることも可能ですが、司令である山下の失敗として言うことも可能なはずです。
軍司令としては、前線に参謀を派遣し状況の把握に勤めるなど、それなりに適任の様子です。
でリンク切れになっている、
の文献
立川京一のマレー・シンガポール作戦-山下奉文を中心に-
 
を参考にしています。

ただし、この能力を評価するなら、彼の出世は師団長か旅団長(少将)程度まで留めておくべきだったと思います。同じ文献で述べられているシンガポール上陸作戦での近衛師団の扱いは、能力以上に出世する人の特徴を表していると思います。特徴とは、他罰的であること。

この教訓は(僕には無縁なのですが)中間管理職を部下もつようになったら、普段から現場の担当者に不満を述べている人には注意して、彼の報告を聞く際には別途裏を取る必要がある、と言うことです。
当たり前の話ですが、本当に優秀な管理職は失敗を部下個人の責任に帰せず、部署の課題として捉え、対処します。
山下が大言壮語タイプでトリックを用いる人であることを考えると、司令ではなく、参謀が妥当なところだったのではないか、と思います。
ただし、このタイプの人は、自分自身を本当に優秀で妥当な出世をしていると本気で信じていることが多いです。謙虚に参謀を務めることはできないでしょう。

 

本書の装丁をあらためて見直すと、副題に「揺らぐことなき統率力」。帯に「”マレーの虎”と呼ばれた司令官の孤高の生涯」など~第二次世界大戦中の陸軍の人だから、批判も多いけれど、人間を詳しく見れば見倣うべきところもあるのだよ。~と、英雄視したい人向けの本のような装丁です。
ですが、僕が読んだ結果は以上のように、反面教師として警戒すべき人の見本でした。
この読書が僕の妄想によりできあがっているのか、他の方が読んでも僕と同様の感想を持つのかは解りません。

2017年 4月23日
No.594