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受動態

Daniel Yangの読書日記

No. 490 モダンガール論/ 斎藤美奈子 著 を読みました。

モダンガール論 (文春文庫)

モダンガール論 (文春文庫)

 
マガジンハウスの「鳩よ!」一九九八年一二月号から二〇〇〇年二月号までに連載された女の子の生き方を考察した一冊。
想定した読者は、現代のモダンガール。ファッションに気を使い、学校に通い、余暇は友達と楽しく、又は趣味やサークル、又はお勉強、アルバイトなど。元気な女の子です。 お手本は、明治末期から百年のあいだの「モダンガール」。つまり、二十世紀の女の子です。

 

僕は、今までの著者の作品から、大衆新聞的正義感を警戒し、話題になっていたので買ってはみたものの、読んでいませんでした。
先日ふと気が向いて読み始めたところ、冒頭の「はじめに モダンガールの欲望について」で
この本は、じつはあんまり正義の味方じゃない。この際、名前をつけておこう。欲望史観。うん、これがいい。
とあります。これは、面白そうだと、思い、実際に面白い本でした。
正義って、その時の正義で、あとになったら正義ではなくなってしまう事って多いじゃないですか。先輩の生き方を読むのには、たしかに、今の正義を基準に読むよりは、欲望を基準に読むのは、良い方法だなぁ。とつくづく思いました。
そうして書かれた本書は、僕の中では今まで「不自由で」「貧しくて」「窮屈」なだけだった過去の女性のイメージを(もちろん、それぞれの時代の環境の違いはあるのですが)、現代を生きる女性と同様に、なるほど、こんな気持ちがこんな女性を作ったのか。と、理解できた(ような気がします。)

 

当時の「女の子」の環境分析も、鋭く感じました。特に印象に残ったのは、第4章 高度成長の逆襲「あなたも私も専業主婦~恋愛結婚というオプション」での分析
家庭が「消費の場」になった~中略~むかしの家庭は、意外と「生産の場」でもあった。
です。男の僕がこの具体的な例として記憶に残るのは、ICが普及した後に、父親が「ラジオも買ってくる方が安くなっちゃったなぁ。」と残念さを吐露していた姿です。そう言えば、僕の記憶にも残らない初めてのテレビは、テレビの前で自慢げにポーズを取る幼児の自分の写真ですが、そのテレビは、父親がブラウン管から真空管まで秋葉原でジャンク部品を買ってきて組み立てたお手製だったのです。
そう言えば、サザエさん(c)長谷川町子も、子供服を自分で作っていたし。
「手作り」と「既製品」の価値観が逆転する時期を僕は生きてきたのだな。と、目から鱗の分析でした。
「手作り」が「心を込めたおもてなし」ではなくて、「安く上げるための手段」と認識する自分が、現代では理解されにくい存在であると、最近ようやく理解した次第です。
簡単な家具や、電化製品を、材料だけ買ってきてノコギリやトンカチ、半田ごてやラジオペンチ、ニッパーを使って作るお父さんが「あたりまえ」の人だった時代には、ミシンで服を作ったり、漬け物を漬けたり、障子の張り替えをするお母さんが「あたりまえ」だったのです。つまり、お父さんにしても、お母さんにしても、家での仕事は「お疲れさま」というべきもので、いちいち「ありがとう」を必要としないのは、親にしても子供にしても、それでよしととされていたと思うのですが、こんなのが当たり前の時代を生きた人の「既製品」=「贅沢」と言う感覚、手作りをそれほど有り難がらない価値観が現在では通じないのですね。
本の感想からだいぶ外れましたので、これにて終わりにします。

2008年2月5日
No.490