あらゆる政治行動の原動力は権力(暴力)である。政治は政治であって倫理ではない。そうである以上、この事実は政治の実践者に対して特別な倫理的要求をつきつけずにはいない。では政治に身を投ずる者のそなうべき資質と覚悟とは何か。ヴェーバー(1864-1920)のこの痛烈な問題提起は、時代をこえて今なおあまりに生々しく深刻である。表紙を引用
マキャヴェリの君主論と並ぶ、現代でも人気の古典
と並ぶ古典です。
同月の講演から「職業としての学問」(Wissenschaft als Beruf 1919)
も出版されました。「職業としての学問」は、まだ戦争中の1917年の講演が元であるとの説があるようです。
収録の同著を改訳収録したものです。
「暴力装置」と言う表現について
今回の読書は「暴力装置」と言う言葉が、たしか本書での訳語だとの僕の記憶を確認するのが目的でした。
最近TVのニュース番組で武力や軍隊を指して「暴力装置」と呼称しているのを耳にします。これは誤用ではないのか、と感じたのが切っ掛けです。
「暴力装置」とは、本書では内政、外交を含めた政治権力を指して使われています。具体的には、政治を行う上で必要な強制力を指しています。内政について言えば、税金を払わなければ、強制的に取り立てられ、犯罪を犯せば、罰せられる。外交について言えば、武力を背景に外交交渉を行う事がある。その背景となる強制力の事を「暴力装置」と言っています。
が、しかし。簡単に勉強したところ、日本では安保闘争以降に単に武力を指して「暴力装置」と言うらしいことを理解しました。安保闘争当時に、(ピース=自称平和主義者であるところの)安保反対派が「暴力」の語感を利用し、悪いイメージのレッテル張りとして、自衛隊を指して積極的に誤用したのではないか、と推測します。
しかも本書では「権力」と言い換えて訳している箇所が多いようです。
ちなみに、Gewaltは、英語ではPowerに相当し「権力」と訳す事が多いようです。Apparatは、英語ではapparatus。日本語に直訳すると「権力機構」というところでしょうか。ちなみに、bingで独語から英語に翻訳させたところViolence apparatusと訳しました。ズバリ「暴力装置」ですね。
「職業としての政治」の構成
さて、本書ですが、冒頭で権力の分配関係に影響を及ぼす行為として、政治を定義し、
次に、兼業であることを前提に、職業としての政治家に向いている職業(本業)を考察し、
最後に、政治家に求められる資質、心構えを説いています。
政治家を目指すのに適した職業とは?
政治家に向いている職業として、弁護士と政党職員を挙げています。金銭的に余裕があると思われるビジネスマンは、逆にビジネスが忙しく政治家には向かないことを指摘しています。
これは、現代の日本でもその通り当てはまるように思え、面白く感じました。
政治家に必要な資質、心構えとは?
資質、心構えは、主に倫理と対比して、政治を説いています。
むろん政治家には倫理が必要ですが、その倫理とは、偉大な聖人たち(キリスト( יֵשׁוּעַהַמָּשִׁיחַB.C. 4 ~ A.D. 28)や聖フランチェスコ(アッシジのフランチェスコ。Francesco d'Assisi 伊1182 ~ 1226)やブッダ(Gotama Siddhattha B.C. 624 ~ 544))が実践した非暴力によるものではなく、暴力(権力の行使)を伴う、結果に責任を持つという意味での倫理が必要と説いています。
つまり、国土が荒廃して、犯罪が行われていれても「俺は正しい行いをした。」と言い張って、自己満足するような人は政治を行うべきではなく、犯罪者を懲役にしたり、対外的には戦争を指導しても、結果に責任を持つ者が政治家になるべきだ、と説いている、と僕は理解しました。
倫理は、過去を考察し、糾弾するが、将来に責任を持たない。政治家は、そうではなく(権力を用いることも含めて)現状をよりよくする手法を考え、結果に責任を持つべし、と説いています。
倫理としては、五箇条の御誓文第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」の通り閣議決定された派兵を実施べきところを、明治天皇を担ぎ出して、閣議決定を覆しました(※1)。西郷や板垣が野に下り、大久保らは(倫理に反した)独裁者として非難されました。そして、西郷らが率いる不平士族と西南戦争を戦うことになります。が、一方で、博覧会を実施し(※2)、殖産興業に邁進し(※3)(結果として)国内の充実を実現し、対外的にも領土確定交渉を成功させ(※4)、新政府の国政を軌道に乗せています。
(※2)内国勧業博覧会:1977年。(※3)内務省設置:1973年。(※4)千島樺太交換条約:1874年締結。
倫理に拘泥せず、政治家として結果に責任を持つ。本書でヴェーバーが説いた政治家のあるべき姿。大久保利通がお手本のように感じられます。
もっとも、僕が同時代に生きていたら、倫理に反するとして、大久保の政治を批判するだろう、とも思いますが。
もっとも、僕が同時代に生きていたら、倫理に反するとして、大久保の政治を批判するだろう、とも思いますが。
政治家は倫理に殉じてはならぬが、政治家のサポーターとして、忠義に殉じ、死後に責任を持たないような(無責任だけれど、自分は満足な)一般人が必要
なお、本書では、倫理に拘泥せず、結果を残すのが政治家の本懐であるとしながらも、倫理に拘泥して、自分の心の安堵を優先する人(僕の理解です)を支持者(人間装置)として獲得しなければ政治を行うことができない点も指摘しています。
倫理に拘泥して心の安堵を優先する人が好む具体的な例を、本書では
内的には「敵を誹謗し異端者あつかいしたいという欲求」、
外的には「冒険・勝利・戦利品・権力・俸禄」
と説明しています。僕は
「民主主義にあっては、正義感に訴え、民衆の支持を得ることも必要。」
と理解しました。
これを応用すると、国会中継で全国民に配信されるような場で声高に訴えるべきは、
実際に政治判断として必要とされる議論ではありません。
大久保の例で言えば、
「今は、対外的に武力衝突の危険を避けて、内政を充実させるべき。」
と政治判断を主張するのは得策ではありません。
勇ましく外の敵を誹謗し、我々日本を手本とすべき事を教えるべきと主張し大衆の支持を得るべきです。
同じ例で言えば、開国を拒んでいた当時の朝鮮へに対し、武力を背景にした交渉を進めるべき、と主張しするのが得策です。
現代では、内政に共通の敵を見いだすのが得策
現代で言えば、対外的に共通の敵を言い立てても、大衆には正義の人と認められづらいようです。内政で敵を攻撃するのが良いでしょう。こちら側は、正義として「反原発」や「護憲」などを倫理として主張するのが得策だと思います。
もう一つ、この本で説かれている政治家に必要な資質「結果に責任を持つ」の逆を大衆の支持を得るコツとして理解するならば、反原発や護憲などを主張する際には、具体的な行く末(結果)について言及せずに、公害や、戦争被害のみを訴えるのが良いと思います。
反原発を正義として政敵を攻撃するならば、決して、不足する電力や輸入するエネルギーの安定確保などを議論してはいけません。
むろん、こんな事を書いていると、僕自身「大衆がこれでは困る。」と思います。
成熟した民主主義社会に生きる僕たち庶民こそ、本書で説かれる政治家に求められる資質を身に付ける必要があると感じました。大義名分や、正義を言い立てて結果に無責任でいてはイケナイ。
国際貢献として、金銭の支出だけでなく、軍事力の提供を求められている現状にどう対処するのか。
「致し方なし。」と政府案に賛成の立場を取るのも一つの態度だし、
外国との協調関係を拒否し、自主防衛戦力を持つのもひとつの手法だろうと思う。
ただ、憲法違反だから政府案に反対。だけでは済ませられないと思う2015年の夏でありました。
2015年 7月29日
No. 578