受動態

Daniel Yangの読書日記

No. 566 近所の犬/姫野カオルコ 著 を読みました。

近所の犬 (幻冬舎文庫)

近所の犬 (幻冬舎文庫)

 

実践的幸福論としての借飼

概要

第150回直木三十五賞(平成25年度下半期)受賞(『昭和の犬』幻冬舎2013/09/10)
昭和の犬 (幻冬舎文庫)

昭和の犬 (幻冬舎文庫)

 
後第一作。
近所の犬+α9匹との触れあいを連作形式で語ります。
序章「はじめに」で、前作『昭和の犬』を「自伝的要素の強い小説」、比して本作を「私小説」と案内しています。

ライトノベルふうに、気軽に読めます

僕は、あまり「私小説」と言うことにはこだわらず、「主人公の人物設定を著者のプロフィールに似せた、女性が一人称で語る小説」として読みました。語られるのはタイトルの通り、近所の犬。住宅、そのほかの事情で犬を飼うことが出来ない主人公は、近所で見かけた犬と出会うことを愉しみにしています。子供が近所の犬に餌をあげたり、勝手に名前を付けて飼っている気分に浸るようなやりかたではありません。散歩をさせている大人と、散歩している犬をじっくり観察し、礼儀正しく承諾を得てから戯れる、ごく大人のやり方で近所の犬に接します。

僕は、友人が嬉しそうに語るのを聴くように、気軽に読みました。
「へぇ、近所の犬と接するのが楽しみなんだ。」
と。

読後の幸福感

が、しかし。
読み終えると、僕は不思議な幸福感に包まれていました。主人公が、近所の犬と戯れる充実した時間を、僕も追体験しているかのような幸福感です。
 
僕は、とりたてて犬を好む者ではありません。とりたてて嫌うものでもありません。犬をちゃんと飼う事の効用(生活が規則正しくなるとか、精神が安定するなどの効用)は認識していますが、僕自身は、強いて飼いたいとも思いません。つまり、主人公の趣味は、僕の趣味ではありません。
だけど、主人公が犬と過ごす時間の幸福感だけは、共有したように感じました。
 
と、言うわけで、僕の趣味(読書感想文を書く)に移る段になって、とても困りました。
「なんと述べたら良いのやら。」
 
読み終えて二ヶ月以上経った、本日。ようやく思い至りました。
この小説は、幸福論になっているのではなかろうか。と。

幸福論

幸福論と言えば、アラン(※)(Alain。本名:Emile-Auguste Chartier、仏、1868 ~ 1951)
第四七節の「アリストテレス」で書かれている「自分から作り出した幸福」の一つの具体例として、この小説は成立している。
と思い当たりました。
 
「借飼(しゃくし:著者の本書での造語)」が困難な趣味であることは、想像に難くありません。その困難さは、ある意味自分で犬を飼う以上と思われます。
もちろん、犬をちゃんと飼うのも、手間暇、時間やお金もかかり大変だと思います。でも、それに輪を掛けて、借飼も大変だと思うのです。そもそも「借飼」自体本書で著者が造語する必要があるくらいですから、周囲にお手本とする人がいません。試行錯誤を繰り返しながら、自分で手法を編み出し、手腕を磨かねばなりません。飼い主に迷惑を掛けず、近所に不審者と認識されないよう気を配りながら、飼っているわけでもない犬と仲良くなり、戯れる。とても難しそうです。
犬を飼う人の気持ちを理解するために、ちゃんと犬を飼うと言うことがどんなことか、の知識も必要です。この趣味を実践している主人公は、もちろん飼育の知識も持ち合わせています。おそらく、犬を飼ったら、容易く躾ける事ができ、その気になれば芸を身に付けさせ、愉快に散歩のお伴をさせることができるだろう、と思えるほどの知識です。
もちろん、失敗もあります。作中では、一旦仲良くなった犬に忘れられる、と言うショッキングなエピソードも挟まってます。
 
「なにを、そこまでして。」
と思います。
 
でも、努力の成果が実り、飼い主の信頼を得て、散歩の方角と時間の連絡を貰えるようになったり、あるいは、見当を付けて出かけた先でもくろみどおり、お目当ての犬に出会って戯れる様子を読むと、その充実した時間を過ごす主人公が、なんとも羨ましい幸福の中の人であることと思うのです。
アランの幸福論では、「砂糖菓子は甘い。口に含んで溶けるのに任せれば、少しの間楽しめる。」と砂糖菓子を引き合いに出し、これと「幸福」が同じと勘違いをして、失敗するケースを指摘しています。
 
現代に置き換えて言えば、「TV番組はおもしろい。リモコンを操作して、眺めていれば、見ている間は、笑える。」と言うところでしょうか。でも、テレビの中に僕の幸せは、たぶん、ありません。
幸福は、自らの意志で取り組み、ある程度苦労を伴いながら達成したところにある、とアランは教えています。
例えば、好きな子がカードゲームのカード収集を趣味にしていたとします。彼に気に入ってもらおうと、お小遣いを貯め、レア・カードのセットを買い、プレゼントしました。でも、彼にはまったく喜んでもらえなかった。と言うような、子供の頃の失敗談を持っている人も多いのではないかと思います。
カード収集は、苦労して自分で集めるから楽しいのであって、たとえ欲しがっていたレア・カードでも、お店で買ったものをプレゼントされても、全く嬉しくないものです。
もっとも、フィクションの世界では、嬉しくないプレゼントをもらった男の子が、嬉しくないにもかかわらず、相手の気持ちを察して、優しく微笑みながら、さも嬉しそうに「ありがとう」と言います。これは、おそらく罠です。そんな気の効いた男の子を望んでいる限り、自分には幸福が巡って来ません。
 
このような幸福論を思い出すと、「近所の犬」の主人公が、あえて困難な「借飼」を趣味にしている事の意味がわかったように思います。ほとんど不可能に思える趣味を、失敗を交えながら取り組むところに幸せがあると。
そして、主人公が見事にお気に入りの犬に出会い、戯れる事ができると、読んでいる僕も嬉しくなったワケです。
2014年12月18日
No. 566
(※)アランの幸福論は、日本でも人気で翻訳がずいぶんと出版されています。
 
僕の手元には、集英社文庫白井健三郎訳があります。
幸福論 (集英社文庫)

幸福論 (集英社文庫)

  • 作者:アラン
  • 発売日: 1993/02/19
  • メディア: 文庫
 
が、しかし。日経ビジネスオンラインに連載していた、村井章子訳の方がオススメです。
幸福論

幸福論

  • 作者:アラン
  • 発売日: 2014/07/10
  • メディア: 単行本
 
理由は、村井章子訳は、読めば理解出来るからです。
え? と思われるでしょうから、説明します。
たぶん正確な訳という意味では、従来の翻訳が正確なのだと思います。
村井章子訳は、本来注釈として別に記していた内容を、本文の中に修飾語として「読んでそのまま理解出来る」工夫が為されています。
また、現代人に読みやすいように、「主語一つに、熟語一つ」のわかりやすい文章になっています。
えっと、この手法は、僕がこのブログを書いていて、頻繁に書き直している手法なので、読み比べて、直ぐに「あ、村井章子訳は、読みやすい文章を心がけているな。」と気が付いたものです。
書き直します。
えっと、僕も「主語一つに、熟語一つ」を心がけています。しかし、自分のブログを読み返すと、心がけどおりに書けていないことに気づくことが多いです。そこで、書き直すことが頻繁にあります。僕が頻繁に書き直す心がけが、村井章子訳では、完成した形で示されている事に気が付きました。
先に記したのは、「。」一つの文章です。
書き直した方は、四つに分割しています。
これは、あまりわかりやすい例にはなりませんでしたが、僕が言いたいことは、とにかく分割できる文章は、なるべく分割した方が読みやすく(話し言葉の場合はもっと顕著に聴いて理解しやすく)なります。
で、村井章子訳は読みやすく、理解しやすいです。
姫野カオルコの「近所の犬」を読んで、幸福感を感じた人には、是非とも「なぜ、僕は幸福感の中にいるのか」を、アラン「幸福論」で検証してみると良いと思います。
「あぁ、なるほど、この小説の主人公は、幸福論を実践しているのだな。」
と思われることでしょう。
 
それでは、クリスマスシーズンも近くに迫っていますが、家族や恋人と過ごす方は、どうぞ、お幸せに。
同性同士で集まって、盛り上がる方も景気よく愉しんで下さい。
このシーズンに、人生に虚しさを感じている方や、漠然とした不安を抱えている方には、是非とも「近所の犬」を読んで、「なるほど、趣味とは、多少難しいことを、突き詰めてみる先に、幸福が待っているものだな。」と、僕と一緒に幸せを感じて下さい。
メリークリスマス>このブログを読んでくれた皆様へ。