明るい未来を手することができるかどうかは、僕たち次第だと思いました。
- タイトルの通り、主に、Googleとamazonの成功例を引き合いに、
- まえがき
- で、先ずは、ロングテールと言う言葉の解説から筆を起こし、
- 第1章 多様化が引き起こす一極集中現象
- で、インターネットで一極集中が起こっている現状を、
- 第2章 Web2.0の世界
- で各社の成功の背景にある技術と、それが企業努力である戦略的投資によって実現していること
- 第3章 Amazon
- 第4章 Google
- などを解説/紹介し、
- 第5章 スケールフリー・ネットワーク
- で、ネットワークの構造をマクロスケールでとらえた科学的分析を行い、
- 第6章 個人への一極集中
- と続け、個人への影響を論じます。ユーザーの立場に立ちながら、かつて科学雑誌のライターも経験している著者ならではの、技術分析、科学的側面の解説は見事でした。
たとえば、成功している二社を嫉妬心で「うまいことやりやがって。」と言う内容ならば、こんなに興味をそそられる内容では無かったと思います。
二社はただ単に、変革の時代の波にうまく乗っただけでは無く、多額の資金を投じて、技術革新を先駆けて行い、今まで僕たちが手にすることが無かったサービスを受けられるようにした。これが、成功の秘訣だと理解出来ただけでも、この一冊の価値はあります。
また、すでに出版後三年近く経っていますが、Google、amazonいずれも本国アメリカ版を分析/紹介しており、日本版で最近ようやく導入された技術もあり、僕にとっては新鮮な内容でした。 - 第7章 「民主主義」によってつくられる”主体性ある思考”
- しかし、本書の真価は、さらに続く最終章にありました。
僕たちは、二十年前の人に「世の中はこんなふうになったよ。」と言えば、すばらしい未来に拍手を送るであろうインターネットが普及した現代に生きています。その一方で、僕は、この技術革新が切り開く未来が明るいものだと単純楽観出来ず、不安も抱えています。
最終章では、首相の靖国神社参拝問題の、インターネット検索上位の記述内容と、新聞による世論調査の大きなギャップを例に挙げ、現実世界に目を向けます。
ここまでで理解したインターネットが普及した現代に於いて、僕たちは、どう振る舞えば良いのか。
この本の最終章を読むと、僕たちが、どのように接すれば良いのかのヒントが与えられたように感じ、うれしくなりました。
以上は、おおよそhontoネットストア:本、コミック、雑誌の通販【共通hontoポイント貯まる】に投稿した書評です。
次に、個人的な感想を述べます。
このブログのコピー元(so-netの初心者向けホームページサービスのサイト)「受動態」はWeb2.0ではありません。僕は1996年の年末にHTML文章を勉強し始め、試しに作ったものを自分のPC内だけで表示させて喜んでいたのですが、1997年にso-netが個人会員のウェブサイトサービスを開始した際に飛びついてオープンしたのが、「受動態」です。オープン以来、感想文を増やしただけで、技術的には全く進歩していません。このサイトは、1995年に発売されたPCでも、何の不具合も無く十分にご覧いただけます。
作り方も、いまだに全部手打ちです。本書で解説されているHTML(Hyper Text Markup Language)文書に記しているタグをタイプしています。
具体的には、本のデータと、感想をデータベースソフトに記した後、テキストエディターにコピーして、タグを書いて、一ページずつ完成させています。そして、四種類の目次ページにそれぞれリンクタグを書いて、修正したファイルをFTP(File Transfer Protocol)ソフトで一つずつサーバーに転送しています。
ですから、Web2.0についての解説を読むと、まず、このサイトが「皆さんの参加型ではなく、僕が書いた文章や静止画をご覧いただけるだけ。Web2.0とは無縁」と言うのが、逆に今は特徴となっている(;^_^A事に複雑な思いがあります。
さらに言うと、Web2.0と言う呼称自体が憎いです。「ぢゃぁ、おいらのサイトの事をVer. 1.0(過去のもの)と言いたいのだね。」と悪態を付きたくなります。
ただし、僕は、ユーザーとして、Web2.0のサイトを利用していますし、サイトを作る側としては(mixiや、amazonに投稿している者としてではなく、「受動態」を書いている者としては、)負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、「個人のサイトは、これで良い。」と思っています。
もし、皆様に参加して頂いても、ほとんど対応は出来ないでしょうし、毎日何百ヒットものサイトだったら、好きなことも書けなくなってしまうような気がします。
そもそも、このサイトの目的の一つは、滅多に連絡を取らない知人、親戚に「あ、まだ、生きてるな。」と言うことがお知らせしたい。というもので、それは今でも十分に機能しています。滅多にご連絡していない皆様、ご無沙汰いたし、申し訳ございませんm(v_v)m
だから、このサイトに本の感想を書いても、まず検索エンジンでは表示されなくなり、かつては時々あった「小説を検索したら、あなたのサイトにたどり着きました。」と言う事が無くなった今でも、このサイトは続けるつもりです。
また、ほとんど検索エンジンに引っかからなくなっても、しばらく更新をしていなくても、プロバイダーとの契約を打ち切らない限り、そのまま「存在出来る」と言うのも、個人のウェブサイトの大きな特徴ですね。
思えば、この十年の変化は、僕も感じていました。
印象に強く残っているのは、某巨大掲示板の興隆です。その掲示板でインターネットを学び、身につけ「これがインターネットだ」と考えている(ように思える)人が沢山現れたときには、驚きました。ただし、しばらくすると、その世界が独特のものであることに、みんなが気付き、その世界で遊ぶ人が自ら自分たちを「中の人」と名乗るようになりました。「あぁ、なるほど、新しいものが出てきたときには、このような現象があるのだな。」と思いました。
そこで、「読書感想文を書く者」としてamazonのユーザー書評を投稿し続ける一方、BK1や、その他のサイトにも投稿しています。本書が指摘するとおり、amazonに書いた文章が読まれる頻度と、他のサイトに投稿したものが読まれる頻度は雲泥の差かもしれませんが、(基本的には、同じような内容で)それぞれに投稿したものの評価の違いから、「いずれ、amazonやgoogleも、それらはある種の傾向と特色を持ったウェブサイトの一種である。」とユーザーが認識する時が来ると感じています。
の感想に対する、amazonとBK1での反応の違いでした。amazonでは、「参考にならない。」だけに4票投票されましたが(その後書評を削除しましたが)、BK1では「この書評はいいと思った」だけに6票投票されています。(hontoに移行してからの票はありません。)これは年齢層の違い(僕が書いた感想は、主に三十歳以上の人に共感してもらえるような内容だった)かな? と思いますし、沢山の人が書評を寄せる本には、短く「良かった。」と言う感想を述べる方が好まれ、少ない場合には、詳しいものの方が好まれる傾向もあるのですが、とにかく、amazonだけが全てでは無いし、これだけを以て本(や、読者書評などの、コンテンツ)の評価は出来ないと、実感しました。
僕には以上のような感覚があらかじめあったので、本書が最終章で取り上げた靖国問題も、新聞社の世論調査と、検索エンジンの検索結果が大きく異なることは、(なるほど。と感じたのですが)「さもあらん。」と納得するものでした。
本書では、「ネット検索の結果は必ずしも、実際の世論とは一致しない。大きく異なり、特定の意見があたかも主流であるがごとく感じられることもある。」例として挙げているものですが、ここでは、あえて、蛇足を承知でこの問題に触れてみます。
これを論じるときの論点についてです。
超簡単にぼくの理解を要約すると、
「戦後しばらくは、政治家が靖国神社に参拝することは、さしたる問題では無かった。しかし七十年代に、靖国神社が東京裁判でA級戦犯として死刑に処せられた人々を他の戦死者と同じように祀って以降、その是非を巡って、議論されるようになった。」です。
2009年5月23日
No.517