"BUSHIDO, THE SOUL OF JAPAN"(The Leeds and Biddle Company, Philadelphia 1899 Inazo Nitobe)の邦訳。
旧五千円札の人
以前から書名だけは聞いて興味があったのですが、なかなか読む機会を得ませんでした。
本書(僕が読んだのは、2007/ 4/ 5第91刷改版発行の岩波文庫)の冒頭に第一版の序が掲載されており、そこで本書を著す切っ掛けを紹介されています。
「学校の科目で宗教を教わらない日本人は、いかにして道徳を身に付けるのか。」
ベルギー人法律家ラブレー博士から稲造への問いです。
星新一の伝記では、これを詳しく紹介しています。要約すると、次の通り。
二十六歳からドイツに官費留学していた稲造は、休暇を利用して敬愛する博士を訪ねました。歓待を受け、一週間滞在しました。その時に問われたのが日本人の道徳の根拠。稲造はこの時には明快に答えられませんでした。しかし「太平洋の架け橋になりたい」との志から、この問いを忘れず、答えを探し、考察を重ね、三十七歳。病気療養中のアメリカで本書を記しました。
「日本人は、いかにして道徳を身に付けるのか。」
その答えを文字通り世界に向けて答えたのが本書です。日本人の道徳のありようを説明しています。
1899年にアメリカで出版された後、世界各国語に訳されました。
僕が読んだのは、先に記したとおり、1938年10月15日発行の岩波文庫です。矢内原忠雄(1893 ~ 1961)による二回目の翻訳です。一回目の翻訳は新渡戸から直接示教説明を受けた桜井鴎村(1872 ~ 1929)による漢文調のものです。矢内原はこれが当時の読者には既に難解であることを鑑み、新たに文語体で訳した旨を、1938年の本文庫発行時の「訳者序」として記しています。その後、1974年の第15刷改版時に新字体、新かなづかいへの改訂、現代表記の現代化など。若干の改変を施したものが、僕が読んだ版です。
いろいろ知識を披露しましたが、それでも読む前の僕の興味は、
「なぜ日本人の道徳が”武士道”なのか」
です。
だって、武士って人口の一割にも満たない少数の人でしょ。
農耕に従事する人が人口の八割を占めていた日本で、その道徳の源泉を探すなら、農耕に求めるべきではないでしょうか。
と、言うような疑問は、実際に本を読まねば解けません。
NHK「100分de名著」2012年12月を視聴すれば、結構わかるのですが(^_^;)
それでは、読み進めましょう。
先ず、道徳体系としての武士道(第一章)、武士階級の歴史など(第二章「武士道の淵源」)、導入部での平易な説明の後、
第三章「義」で付随して「義理」について説明しています。他の本書の解説では耳にしたことがありませんが、僕はここに大いに興味をそそられました。
アメリカ人にとっての「愛」を、日本人は「愛」および「義理」として身に付けている。
キリスト教文化圏の人が「愛」を動機として為すべき、と教えられ身に付けている家族や隣人への行為を、日本人は、たとえ愛が不足している場合でも「義理」を感じて実践する事が出来る。と、僕は理解しました。
逆に言うと、日本人に「愛」を求めるのには無理があると思いました。例えば、「義理」として家族の看病をする日本人に「愛」を以て看病をしろ。と求めると、少々酷なように思います。義理として看病するにしろ、愛情をもって看病をするにしろ、実際のところは同じ事をしているのですから、あえて「愛情を以て接しなさい。」と言う必要は無いと思います。
アメリカのテレビドラマなどを観ていると、恋人同士は頻繁に言葉で愛情がある旨を発言し、確認しています。
本書を読むと
「なるほど、キリスト教文化圏で育った人は、家族や近しい人へ接する際には、根拠として愛が必要で、それを表現する訓練をしながら育ち、平然と表現できるのだな。」
と思うようになりました。ただし、これを日本人に求めるのは、やはり無理があると思います。
例えば、しばしば「子供に愛情がわかず悩む」と親の嘆きを耳にします。
僕はそんなときに
「日本人なら当然です。愛情が沸かずとも、義務として接してあげましょう。」
とアドバイスをするとずいぶんと楽にしてあげられるのではないかと思います。いかがでしょうか。
また、家事や、家計のための収入を得るための仕事を義務として為している最中に、もし愛情の裏付けがあるのか? と不安を持った時。
是非とも思い出したいものです。
「愛」の裏付けを必要とするのは、キリスト教の文化で育った人の考えです。あらかじめそのように育てられた人にしか出来ない考え方です。
日本人は「義務」として世話をすれば良いのだ、と。
もし、「愛」があるのか?と疑問に思ったら、それはアメリカのテレビドラマの見過ぎだ、と、思い出しましょう。
閑話休題。
第八章「名誉」
第九章「忠義」
ここまでは、イギリスのジェントルマン、ドイツの騎士道精神などと比較しながら進めています。
第十章「武士の教育および訓練」
第十一章「克己」
第十二章「自殺および復仇の制度」
切腹は自殺ではありません。
この章は白眉だと思います。
「自殺」とは、すなわち切腹。
新渡戸は本章で聖書でのキリスト(※1)(B.C. 4 ~ A.D. 28ギリシャ)、ソクラテス(※2)(B.C. 469 ~ 399ギリシャ)を引き合いに出し、切腹も単なる自殺とは異なる事を説明しています。なるほど、キリストは処刑され、復活したからこそ、今の世界宗教に至るまでの信者を得られたのであろうし、ソクラテスも死によって弟子達のが奮起し、プラトン(B.C. 427 ~ 347ギリシャ)を始めとした哲学者の著作によって現代まで影響を与えているのだろうと思います。この例を示されれば、自ら選んだ死が、個人的な理由による自殺とは異なることが、キリスト教文化圏の人にも納得できるだろうと思われます。
- (※1)キリスト(B.C. 4 ~ A.D. 28ギリシャ)は自殺か
- 僕が聖書の受難の項を読んでの理解は、裁判官が無罪だと知り、一応助け船を出しています。助け船に乗らず、処刑を選んだのはキリスト自身です。言ってみれば、一応自殺です。
- (※2)ソクラテス(B.C. 469 ~ 399ギリシャ)は自殺か
- (僕の理解では、アテナイ市民による死刑判決が不当であると認識されて、脱走できる状態で拘留されました。しかし、死刑判決に従い自ら毒を煽って死にました。一応自殺です。)
第十三章「刀・武士の魂」
第十四章「婦人の教育および地位」
と、続き、ハイライトは、終盤で日本人の精神を日本固有のサクラに喩えたところだと思います。(第十五章「武士道の感化」)
なぜ、来日した外国人は「サクラ」を褒めるのか。
バラに対するヨーロッパ人の賛美と比較しています。
バラ:時が来ても、枝上で朽ちる事を選び、死を恐れているように感じられる
サクラ:時が来れば散り、人を飽きさせない淡い香を残す。
この説明は、大変な影響力があると思います。日本通を自負する外国人が、日本を表現する際にサクラを喩えにする事が多く、それは僕自身が日本人として感慨を持つサクラ以上の意味があるように感じられていたのでしたが、おそらく、本書の影響だと思いました。
ちなみに、ケネディー大統領(John Fitzgerald "Jack" Kennedy 1917 ~ 1963 米第35代大統領在位1961~1963)や、クリントン大統領(William Jefferson "Bill" Clinton 1946~ 米第42代大統領在位1993~2001)が上杉鷹山(上杉治憲1751~1822米沢藩主第九代1767~1785)を”もっとも尊敬する日本人政治家”として挙げた。と、都市伝説のように語られますが、それがもし何かのスピーチでのリップサービスだったとしても、これも本書「武士道」の記述が元になっているのではないかと思います。
本書第五章「仁・惻隠の心」で、啓蒙専制君主のフレデリック大帝(Friedrich II 1712 ~ 1786 第三代プロイセン王。在位1740~1786)の言葉「王は国家の第一の召使いである」を紹介しています。これに加えて、上杉鷹山の「国家人民の立てたる君にして、君のために立てたる国家人民にはこれ無く候」を正確に同一なる宣言として紹介しています。
この項では、アメリカの世情=封建制を旧悪、民主主義を近代の模範とするべきと理解されているのを鑑みているのだと思います。ヨーロッパの封建制でも優れた為政者は仁を以て政治を執ったことを引き合いに出し、同じく封建制での支配階級であった武士も仁を重んじたことを説明しています。
クライマックスでは、武士階級が無くなった後の世にも、精神としての武士道が残るであろう事を予言して締めくくっています。(第十六章「武士道はなお生くるか」、第十七章「武士道の将来」)
さて、今自分に武士道の精神があるのか、読後にしみじみと考えました。
僕には、どうやら戦闘を職業とする特性はほとんど残っていないようです。
でも、正義感、潔さ、誰が見ていなくても、天が見ているであろうと感じる心は、武士道の名残のようにも思います。
今年もサクラが満開の時期を迎え、早くも散りつつあるのを眺めて、単に「花の命は短い」と嘆くのではなく、
潔さに誇りを感じるのが、日本人的精神なのかも知れない。
と、新渡戸が百年以上前に記した予言が当たっていることを感じました。
2014年 4月28日
No.556
No.556