受動態

Daniel Yangの読書日記

No.236 白痴・二流の人/坂口安吾を読みました。

白痴・二流の人 (角川文庫)

白痴・二流の人 (角川文庫)

 

 

坂口安吾の代表作を集めた短編集です。

 

先ずは、1931年二十四歳のデビュー作
木枯らしの酒蔵から
同じ年に発表された出世作
風博士
いずれも、今もって尚、新鮮で斬新な文体です。
「木枯らしの酒蔵から」で酔っ払いの主人公が「  う、ぶるぶるじゃよ。」「あべべい、酒は茨だねえ、」などと呟くのが楽しい。
「風博士」は、なんだか、ストーリーがあるような、無いような、ライバルの蛸博士を呪って自殺した風博士の遺書ですが、全くもって、ナンセンス。「否否否。千遍否。」とリズミカルに蛸博士を否定しつつ、自殺と言っても「POPOPO!」とシルクハットを被り直し「TATATATATAH!」と消えて無くなってしまうのです。う~ん。
インターネットの世界では、吉本ばななの文体を真似たBBSでの口調が新鮮で楽しいけれども、奇を衒って、この作品から拝借して来れば、僕も新鮮な口調で喋れるかも。

 

続いて平安の寂れた都でのファンタジー
紫大納言
1939年2月に発表されました。1932年3月に発表した小論「FARCEに就いて」(「堕落論」新潮文庫2000/ 6/ 1に収録)を具現化した小説です。

 

太平洋戦争開戦当時の風俗を描きつつ、人間魚雷回天で自爆した兵士へ捧げた
真珠
これは、特攻兵士、戦争で死ぬ事、に対する当時の一般市民の「声」として参考になるような気がします。

 

そして、戦中、戦後と継続して書かれた時代小説
二流の人
豊臣秀吉の軍師として竹中半兵衛重治と並び賞された軍師、黒田官兵衛孝高(黒田節で有名な筑前黒田藩の祖)が生きた時代を描いています。「正義」「大義」「信義」など、何かと精神論で描かれる事が多い時代小説と毛色を異にした快作。武将の心理描写、平たく言えば、「好き嫌い」を丁寧になぞりながら物語を進めています。織田へ随身した青年時代、本能寺の変、小田原征伐朝鮮出兵、関が原の合戦と、戦国時代後期の主なイベント評価としても楽しい。
「現代の政治も、みんな偉そうな事を言いつつ、結局のところ好き嫌いで動いているもんなぁ。」
と思いつつ読みました。しかし、そう思いつつも、後から付与される「大義名分」で簡単に理解したつもりになり、キー・マンの好き嫌いまで考える事は実際にはありません。
余談になりますが、最近読んだ文章では、インサイダー編集長の高野孟横山光輝潮漫画文庫三国志」第17巻潮出版社1999年3月25日発行

 

三国志 (17) (潮漫画文庫)

三国志 (17) (潮漫画文庫)

 

 

の巻末に寄せた文章が思い起こされました。ここで高野氏は「矛盾のマネジメント術  毛沢東と『三国志』」と題して毛沢東の『矛盾論』をもとに政治の駆け引きを論じています。僕が膝を打ったのは、一九九四年六月社会党村山政権成立の分析。これ、面白いですから、是非『三国志』17巻を買って読んでください。
あ、完全に余談になった。閑話休題。

 

そして、有名な
白痴
「新潮」一九四六年六月号に発表されています。むろん、この記述は、文庫巻末の解説を読みながら書いています。
「人間性とは何か」を問うた問題作であると聞いていたので、てっきりヒロイン「白痴」を健常者が気付くべき美点として描いた作品だと勘違いしていました。
そうではなくて、
「我々は、浮世の気まぐれに白痴を見習うべき人間本来の姿と賞賛しがちですが、結局のところ人間らしいと言う事は、雑事に紛れ、煩悩に苦しみ、孤独なのです。」
と著者が説いているように読みました。

 

まだ、あと、二編収録されています。
「文芸」一九四七年一月号に発表された
風と光と二十の私と
は、著者が世田谷下北沢(小田急線が開通する前=草深い農村だったらしい)で代用教員を務めた一年の回想録です。
子供にとっての「大問題」が、大人にとってはどうって事無い事でも、子供にはそれなりに大問題であることなど、著者の丁寧で誠実な人間観察眼に目を見張ります(観察眼に目を見張ると  にらみ合うのか?(笑))
この一遍には、僕に強烈な印象を残した同僚の先生方の道徳観についての記述があります。
教育者は人の非難を受けないよう自戒の生活をしているが、世間一般の人間は、したい放題の悪行に耽っているときめてしまっていて、だから俺たちだってこれぐらいはよかろうと悪いことをやる。当人は世間の人はもっと悪いことをしている、俺のやるのは大したことではないと思いこんでいるのだが、実は世間の人にはとてもやれないような悪どいことをやるのである。

(引用途中一部省略しました。)

農村にもこの傾向があって、都会の人間は悪い、
この傾向は宗教家にもある。
と、人が悪事を為す時の心理を解説しています。
自分の中に基準を持たずに、人と比較して善悪を決めるのが良くないのだが、教育者(および、農村の人、宗教家の人)は、比較対象が自分が勝手に想像した架空の悪人であるのだから、さらに良くない。と続きます。
この随想に記されている坂口安吾20歳の1926年から早87年(小田急線が開通した1927年から早86年)ですが、世の中の人と言うのは変わらないものですね。
と言うのは、今でも悪いことをするときに
「大企業のやつらは、もっと悪いことをしているのだから。」
とか、
「男なんか働きに出ていると言って何しているかわからないんだから。」
とか、
「公務員なんてやりたい放題やってるんだから。」
とか、あたかも観てきたように、第三者の悪事を比較対象として
「だから、これくらいやらないと逆に損だよ。」
などと言いながら、とんでもない悪事を働く人がいます。と、僕も観てきたように書いていますが、実際に目の当たりにしたことは無いですf(^ー^;
そのほか、子供の狡賢さや、女子児童の「成熟」など、「子供は天使だ」など、単純に理解する事が、いかに子供を馬鹿にした事かと非難されているように感じるほど、狡賢い子供、色気づいた女子児童を、「自分の児童」として受けとめ、飽くまでも教師として接し、行く末を思う記述に姿勢を正したい思いに駆られました。
最後の
青鬼の褌を洗う女
は、著者の理想的な女性を、女性の立場で描いた作品と見受けられた。かっこいいかもしれない。
とにかく、軽快で、新鮮。それでいて僕には大変濃い読書となりました。

 

2000年 3月23日
(若干修正)2000年10月 1日
(再び修正)2013年11月24日

No.236